おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

044_省み

ちょっと、同じような内容を、あちこち散漫に書き散らしたので、勝手ながら、自分の復習も兼ねてまとめを書きたいと思う。

かなり勝手な独断と偏見に満ちた仮説が入り交じるが、お許し頂きたい。

以前に、すべての世界は波動により、細かい方から粗い方にかけて、神界、霊界、幽界、現界(=この世)にわかれ、因縁因果がこの中を通して回っていくこと(*1)を述べた。

とりわけ、現界(特に時間軸で言えば、現世)では、何代にもわたる過去世の真善美に悖る想念と行為が因縁となり、現世で主に病争貧苦のような消えてゆく姿の形となって因果として実を結ぶことも述べた。

わかりやすい典型例なら、夫婦間の浮気があげられるだろう。

ここに、ごく普通の夫婦がいて、夫が妻に何の落ち度もないのに、身勝手に浮気をしたとする。

妻にしてみれば、現世の彼女のこれまでの人生で、夫に浮気をされるような何の悪いことをしていないのに、今まで培(つちか)ってきた夫婦関係を壊し、裏切るようなことをされ、なぜにこんな、悲しく、辛く、苦しい思いをしなければならないのか、納得できない場合が普通だと思う。

さて、今まで、神様や神界が真善美に悖らないと何十回となく書いてきた。

すべての世界の元が神界からの光から始まることも書いた。

ということは、あらわれの形は、特に霊界の下層と幽界と現界で、真善美に悖る不純物の影響を受けて、これらは変質して消えていっても、大元というか、各界の底の底、いわば、根っこは神界だと言えるのではないか。

霊界でも、幽界でも、現界でも、神様の世界に相応しくないものは消え去る定めにあるにしても、その根っこは神界だ、と。

大別して、四つにわかれている(*2)が、やはり、神界以外も実は神界が根っこにあると。

すべては神様の現れなんだ、神様しかないんだ、ありてあるもののすべては神様なんだ、とはこうした意味なのではないだろうか。

だから、善きにつけ、悪しきにつけ、神界そのものとは異なるものは、時の経過とともに、存在し得ず、必ず消し去られる定めにあると。

つまり、霊界だろうが、幽界だろうが、現界だろうが、中でも、真善美に悖るものは、存在することを許されず、必ず消え去る定めにあると。

で、現界で見ると、様々なことは起きてはいるが、本来は起きないはずだ。根っこが神界なのだから。

ポッと出のように、生じる出来事も、実は突発的なものではなく、それなりの他の界なり何なりの別のものの影響を受けて生じてくると。

従って、身勝手な浮気は、訳もなく突発的に生じてくるものではなく、何かしら、他の原因があって生じてくるものであると。

つまり、現界でも、真善美に悖る、起きてくる行為は、故なき、理由なきことではなく、その裏付けがあるものだと。

この浮気の例でいえば、妻が過去世で、夫の立場にあった時、本当に突発的に、いわばその過去世の時点で新規に身勝手な浮気をしたことの、穴埋め、いわば清算が、過去世で妻であったであろう、今の夫に現世で身勝手に浮気をされたという形で、返ってきた、あがなわれた、ということです。

で、80 対 20 の法則ではないけれど?、起きてくる大半のものが、過去世の出来事を原因として起きてくる、いわば、紐付きの因縁のあるものとなっていると。

で、神界を根っこにもちながらも、どうしても?、新規に無理矢理?突発的に起こしたものは、来世以降に清算をすると。

まあ、とりあえず、こんな感じて理解して、次に進ませて下さい。

で、本来、どの界でも、あるべきではない、真善美に悖る想念と行為は、なぜにこんな突発的に新たに起こされたのか?

これが、おそらく神様が惑星開発をして、神様の世界を三次元の物質として現そう、としたところから始まったのではないか、と思われます。

そのためには、すべてのすべてでは、動きようがないから、まずわかれる。

そして、わかれた霊なる人間として、更に物質次元に働きかけるために、波動を粗くし?、またまた、更に肉体人間を作りその中に入り込む。

そうして、元々は、一つの霊光から出ている、いくつかのものがさらにわかれ、しかも寿命数十年?の肉体人間の中に入り、活動してこれを維持、そして世代を引き継がせていくために、自己保存の本能や動物的な本能を新たに付与されることになった。

ただし、そこはさすがに神様、そのままだと、相争って自滅することは、読めていたから、これを支えるために、各種神霊による肉体人間の守護という形での、体制というか、仕組みをつくられた。

そして、因縁と因果の転回する法則は、かなり厳格なので、自己保存の本能その他を付与された肉体人間だけでは、数限りない真善美に悖る業想念を出してしまうために、因果の発現は、やむなく負けられないものだけにとどめ、担当する肉体人間を、その霊なる人間としての成長を見据えつつ、できる限りその業想念を浄めて、発現化を減らして守っていくと。

目には見えないし、実感はなかなかわかないけれど、いつも見守り、一緒についている。

同行二人として。

今まで、クドクドと述べてきたことを、大まかにまとめると、こんな感じになると思う。

まあ、あちこちに、誤りがあるかもしれないが、大筋では、こうだとさせて下さい。

で、俺は善なる神様を信じるならば、これしかないと思っている。

巷によくある、霊感もの?や、神様もの?、そして、こうしたものによくありがちな、勧善懲悪的な、スリル満点な裁きの物語に一喜一憂すること自体が非常に不安定だし、とても神界の出来事とは、思えないからだ。

真善美に悖り、業想念をひき起こすものは、この際、徹底的に心から排除するように、世界平和の祈りと守護霊、守護神への感謝行とともに努める。

仏典や聖書や神示にも、不可解なところや宇宙的なところも含めて不思議なところがあるが、もう、あれやこれやほじくり返さない。

検証・精査・研究していたらキリがない。

下手をすると、人生が終わってしまう。

よって、拡大解釈も含めて、趣味、教養の最小限度の範囲内にとどめる。

せっかく、真善美の判断能力を授かっているんです。

これで、はじいていけば、十分ですよ。

~~~~~

(*1)因縁因果の転回法則がわかりにくいのは、各人の輪廻転生の仕方が、世代をまたいで(=何代か飛ばして)機能するところだと思う。

直近の過去世たる前世での真善美に悖る想念と行為が、そのまままったく逆の形になってあらわれてくれば、まだ少しはわかりやすいし、理解の手がかりが得られるかもしれない。

これが何代か飛ばして機能すると、特別な霊感のある人などでなければ、まず理解できないし、わからないからだ。

巷でよくこれに見立てて使われる、因果応報やブーメランは、現世内だけでのことですね。

なぜならば、この世に満ち満ちている、不条理、不公平を全く説明できないし、理解できないからですよ。

そうでなければ、こんな世の中になっているはずがない。

ただし、この世があまりにも魂の修練所として、牢獄か刑場のように厳しいからと、投げやりや捨て鉢になってしまったら、更に大変な修行が加算され、苦しみが増して取り残されていくだけです。

何バカなこと言ってるんだ、霊なんかはないんだ、生まれ変わり、輪廻転生なんかまやかしだ(*3)、そんなものは、この世のデタラメぶりを納得させるための詭弁だ、俺(女性なら、私)は、やりたいことをやりまくるんだ、やり尽くすんだ、という人も、もちろん、たくさんおられることと思います。

あとは、読まれた方の判断に任せるしかありませんが、強いて言えば、唯物論に絶望したなら、神様にすがるしかないですよ、ということくらいでしょうか。

私は、もうかなり以前から、唯物論では絶望的だと思っていました。

現にいくら批判しても、事態はまったく好転しません。

逆です。

どんどん悪化している。

しかも、ほんの少しの好転に見せかけて、また残酷な阿鼻叫喚があったりする。権益を得ている人達が、簡単にこれを手放すはずがないからです。(*1ー1)

自己保存の本能に縛られている以上、これを崩すことは、ほぼ不可能だと思います。

さあ、どうしたらいいか、となった時、この世はどんな仕組みで動いているのか、唯物論以外に希望の光は見いだせないのか、といろいろと見てきた結果、唯物論陰謀論と通過して、たどり着いたのが、神様だったということです。

これで、できる限り多くの人が、自らの神性に覚醒して祈り人になっても、それでもダメなら、あきらめるしかありません。

五感に感じる確実な保証がないので、あとは各人の信念次第ですね。

(*1ー1)だから、もう業想念を生じさせ、想念を乱すことを見直してほしいんですよ。そういうことは、神様にお任せして、お役目のある方に任せて、すべては祈りの中から出てくるものと信じて。

俺が俺が、私が私が、というのではなく、業想念の我欲で出ていくのではなく、すべては神様を信じて成り行きに任せるようにして。

どうしても、必要があれば、そういう人は自然に導かれてお役目を果たすと思って、祈り一念の謙虚な姿勢を保つ。

そうして下さるように、ささやかに願っております。

(*2)五井先生によると、神界、霊界、幽界、現界は、それぞれに、更に何十と細かくわかれているらしい。

ただ、話の便宜上、大別して4つにわけているとのことです。

(*3)以前、般若心経についてでちょこっと書いたが、私達のほとんどすべては、原則として過去世の記憶を消されており、人間とは、今現在、この五感で認識できる肉体人間だとしかわからないと書いた。

こうした感覚でいること、そして、今現在の人生に夢を抱きたいこともあり、輪廻転生を認めたくない気持ちもあるのかもしれない。

この人生だけがすべてであり、しかも可能性が無限とはいかないまでも、かなりあるものと思いたい。

しかし、輪廻転生を認めてしまうと、これがかなり限定されたように思えてしまい、面白くない。

さらに、場合によってはつまらないと諦めたり、覇気をなくしてしまうかもしれないからだ。

つまり、今現在の人生が、かなり可能性を絞られた限定的なものだと思いたくないと。

唯物論を信奉する人達の中にも、霊魂や輪廻転生を、実はおぼろげながらも、認めている人も、そこそこにいるかもしれないと思える所以(ゆえん)です。

こうしたことからすると、感謝する気持ちを涵養(かんよう)していくことは意義があるとなるが、そのためには(=感謝を感得していくためには)、必然的に、苦労などが不可欠となる訳で、やはり、人生は修行ですね、これは。

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追記: 2024/03/31 09:35
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。