おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

020_祈りの言葉

祈り。

御心の如く為さしめ賜え(みこころのごとくなさしめたまえ)、ですね。

南無阿弥陀仏、でもいい。

世界人類が平和でありますように、もある。(*1)

神様のご意志を地上にあらわすために、どうかこの私をお使い下さい。

神様、どうか私の体を御使いになり、そのみ心をあらわし賜え・・・。(*2)

つまり、煎じつめれば、神様との一体化なのである。

肉体人間の枠に閉じ込められて、長い長い間、忘れ果てていた本体としての霊魂魄、神様の分霊(わけみたま)としての光の生命を宣(の)り出す言葉。

それゆえに、肉体人間の現世での欲望の典型、つまり、カネ、異性、地位だのの当座の我欲の成就を願うのとは訳が違う。

神様とその分霊を頂いている人間が、一つになり地上に神の国を造るべく、果てしない輪廻をしながら、長い長い努力を続けていく。

神様の御名を呼び、日々、想念と行為を真善美に照らし合わせて改めながら、生かされているあらゆる環境(自然から守護の神霊まで含む)に感謝しながら生きていく。

そして、想念の照準を常に神様に合わせるようにする。

そのための祈り言葉。

南無妙法蓮華経は、ちょっと・・・(浄まっていないと、自滅しかねないお題目なので)。

従って、信仰者は、基本的に努力以外は(神様に)お任せの生き方になる。

信仰しながら、不幸災難が来たら神様を呪うのでは、わかっていないことになる。

まして、力を得たからといって、金の亡者になったり、威張ったりするのは論外。

信仰するからこそ、神様のみ心においてみんなを崇める。

ある意味、非常に厳しいのである。

妙好人の人達の生き方を調べればよくわかる。

彼らの生き方を、真に理解できたらの話。

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(*1)南無阿弥陀仏と世界平和の祈りでは、前者が往相廻向(おうそうえこう)が主で、後者が還相廻向(げんそうえこう)まで含んで広がるので、違いがあるが、本質は同じ。

(*2)理屈だけで、エラソーそうなこと書きましたけど、私自身とてもこんな境地には到っていません。

あくまでも、皆様に目指して頂きたい内容です。

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①追記: 2024/03/20 05:50
②追記: 2024/03/29 02:17
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。