395_法悟28-14-2
第 2 週 人生苦と向き合う
7 人生の達人になるための条件
真理を語ること。
怒らないこと。
頼まれたら少しでも助けてあげること。
この三つを実践する人は、
神々の世界に行くだろう。
(二二四) (第17章 怒り より)
また、独断と偏見を書きます。
今回は、いつもにも増して、かなりウダウダとなるが、仕方がない。
お許し頂きたい。
(1) 真理を語ることについて
真理とは何かが、ここでは特定されていないが、とりあえずは、いかなる場合にも通用する妥当な知識や認識、とする。
例えば、難病の男性患者がいたとする。担当の医者が、たとえ真実だからと、病状や将来の見通しをありのままに、(冷酷に)告げたらどうなるか。
医者自身が、その病気に罹患(らかん)していない場合が圧倒的に大多数だから、ありのままに告げれば、患者がどれだけのショックを受けて、悲嘆にくれ、苦しむかはわからないことがほとんどだ。
つまり、わが身に置き換えることができないから、なかなか、相手の立場に立つことができないのである。
医者も親の期待や言いつけ、そして、人助けという高貴な職業で安定した高給が望めるであろうという打算も多少はあるかもしれないが、初心には、やはり、人のために尽くしたいという気持ちを必ずや心の片隅にもっているとは思うのだ。
それでも、捌(さば)く患者の多さ、研究の多忙さ、人間関係などで、いろいろと煩わされ、患者の親身になることはかなり難しいだろうとは思う。
だから、アッサリと言ってしまう。
あるいは、幼い頃から勉学に勤しみ、ろくに遊ぶ暇もなく、独特のプライドを鎧のようにまとっているように、見受けられる人もいる。
こうした人の場合、かなりトゲのある言い方をする場合があるように思えるのだ。
まあ、散々、勉学に追われ、しかも、超多忙なのに人格者にまでなれ、というのは、酷な注文かもしれない。
話がそれた。
こうした場合、医者が患者に、ありのままのこと、ウソをつかずに真実を告げることは、事実を一切曲げていなければ、真実と言える。
この意味では、ある意味で、真理を実践したと言えるだろう。
しかし、果たして、本当にそれだけでいいのか?
お前はこうだ、と相手に有り体に告げ、ドカーンとやってペチャンコにするのを、あらゆる患者に適用していいのか?
この世の人間の圧倒的大多数の人は、人間=肉体人間観に支配されている。
だから、肉体と神様の分け命たる本体を分離して考えることができない人がほとんどなのだ。
何があろうとも、何が起ころうとも、ああ、すべては過去世の因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿なんだな、神様ありがとうございます、とできる人はまずはいないのだ。
だから、やはり患者には、人間としての愛を、同胞としての愛をもって望むべきだと思うのだ。
患者の性質やこらえ性などを多少加味して、事実を曲げない程度(多少は曲げても)に、言い方を工夫することはできるはずである。
こうした事例のように、苦しんでいる相手の身を慮(おもんぱか)り、ある程度、事実から外れたことをいうのは、まだまだ、人間=肉体人間とする見方が支配的で、唯物論全盛の現代では、愛のある行為だと思うのだ。
要は、極端に言えば、ウソも方便だ、ということだが、まだまだ、霊性の開発が足りず、肉体人間観が根深い場合には、相手をなるべく傷つけないように慮ることで、愛を施す。
神様は愛なのだから、愛はすべてを生かすのだから、これは、神様のみ心に沿った行為だと思うのだ。
よって。
個人的には、四角四面に事実をありのままに告げない、事実を曲げる場合もアリだ、と考えます。
きわめて不利な立場の相手をも生かす、いわば、緊急避難的なウソは、アリだと考えます。
(2) 怒りについて
S さんのような偉い人にとっても、怒りは難題なのか、かなり、あれやこれやと回っているように見える。
ノコギリの話は、S さんの引用説明がまったくないのでわかりにくいが、中部経典第二一の「のこぎりの譬(たと)え」という教えのことだと思う。
これは確かに唯物論的に見れば、ブッ飛んだ話である。ほとんど理解は不可能だ。
しかも、お釈迦さんは、この危害を加えられるに当たり、感情を乱して、声を上げるなど取り乱したら、私の弟子ではないかのような強烈な話なのだ。
法華経にもあるが、わが身が焼かれようとものように、唯物論で人間=肉体人間とした場合には、到底理解できない話がある。
こうした考え方は、人間=神様の分け命である、肉体ではない、としないと理解できないと考える。
人間=神体、霊なる人間であり、肉体はその働き場所であり、器なのだ、と感得していないと理解は不可能だと思う。
お釈迦さんが、いかなる恐怖を味わおうとも、苦痛を味わおうとも、想いを乱すな、としているのは、こうした発想で理解しないとわからないと思う。
本体が神様の分け命だとしても、肉体をまとい、肉体人間として抱く想いは、神様のみ心に沿ったもの、つまり、真善美に悖らないものであることが本来のあるべき形だ。
だから、危害を加えられることにより生じる、不安、恐怖、怒りは、すべて、真善美に悖るものであり、本来はあってはならないものなのだ。
だから、こうした想いや行いは、神様の分け命を本体とする者、仏教的に言えば、仏性には、ふさわしくない、そもそもないものとなるのである。
お釈迦さんの言っていたとされる過激とも取れる言い回しは、こうした内容を踏まえてのものと思われる。
なお、因縁因果の面からも、考えられることがあるのだが、今回は勝手ながら割愛とする。
お許し頂きたい。
(3) 神々の世界
また、霊性をきちんと肯定しないのに、軽々と神様を出してくる。
こうして、ごくごく普通に、当たり前のように神様を出してくるならば、神様がどんな存在か、きっちりさせておくべきだ、と個人的には考える。
創造主としての神様は認めていないだとかしている話がある割には、梵天がでてきたり、帝釈天が出てきたりする。
神様をきちんと肯定しないから、縁起のようなわかりにくいモヤモヤした理屈で言い繕っているように思えて仕方がない。
空は、神様だ。
神様からすべてが生まれてくる。
肉体人間は、神様の働き場所であり器である。
自然も植物も動物も肉体人間も、何もかもが、すべて神様のあらわしたものに他ならない。
その理解の仕方の方が、ずっとスッキリしてわかりやすいと個人的には考える。