おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

022_推奨易行道

私はここで世界平和の祈り一念(*1)の易行道(*2)をすすすめたが、お人によっては五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)が教えを拓(ひら)いた当時から、時が止まったままだ、古色蒼然だ、と思われるかもしれない。(*3)

しかし、これを実践していくのは、実は並大抵のことではないし(*4)、きわめることができれば、信仰生活としては、もう十二分だな、と思うのだ。

五井先生の著書に、「生きている念仏」(白光出版)があるが、あそこに出ている妙好人(みょうこうにん)の源左さん、才市さん、宇右衛門(うえもん)さんの話がある。

彼らのような境地に到達できれば、もう十二分だな、と。

唯物論の人なら、すぐに自虐のなんのと言い出しかねないが、それは完全な的外れである。

例えば、宇右衛門さんのように、自己の悪い因縁(負のカルマ)を感謝で乗り切り消滅させるだけでなく、周囲を仏の光で光明化させ、人々によい影響を与え続けることは、そう簡単にできることではない。(*5)

もちろん、世の中にはどうしようもない悪魔的存在があるのは確かだ。

それでなくても、私達は肉体人間の自己保存の本能から、自分の正当化ばかりをしたがるのが習性だと思う。

そこに、神様(阿弥陀如来様)を介在させ、信仰していくうちに、自分も実は神仏の子であると無意識に確信した行動がとれるようになっていく。

まあ、私達は大体が五欲にまみれた肉体人間だと思うので、彼らのような神仏の行いだけの人格者になってしまっては、ツマラナイ?と思われるかもしれない。

まだまだ、金、権力、異性を貪りたいと鼻息を荒くしている人もいるかもしれない。

しかし、私達が生きている、すなわち、神様の命を生きている=(神様によって他動的に)生かされている以上は、神様と無縁で生きることはできない。

だから、どんな唯物論者でも、無神論者でも、窮地に陥った時、思わず神様!と呼び(叫び)たくなるのだろう。

なので、私達の人生が神様の分霊(わけみたま)であることを悟っていくための修行であり、霊性の開発がいずれは避けて通れない課題なら、今その端緒をつかんでおくことは、決して無駄にはならないはずです。

お人によっては、霊能者ではないと言いながら、何かにつけて神仏や生まれ変わり、過去世や霊視を持ち出し、結果的に霊感を売りにして?強烈な悪魔的存在をも肯定し、多大な不安を抱かせるような人もいる(まあ、外見とは違って、精神的に清く、強く、逞(たくま)しい人なんだけどね。すべて人がこんなに強くはなれないし、悪魔を肯定して持ち出すのは頂けない)。

こうした悪魔的存在肯定論?に惑わされないためにも、そして何よりも神仏への確固たる信頼を築くためにも、輪廻転生の中に霊性の開発の基礎を埋め込んでおくことは、大事であり必須だと考えます。(*6)

まして、今はこんな時代だし、一人でも多くの人が神仏の子として目覚め、世の中を良い方向に向かわせてほしいと願っている。(*7)

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(*1)・一念~いちねん~深く心に思うこと。

(*2)・易行道~いぎょうどう~仏教の浄土門などの他力の修行。

阿弥陀如来様におすがりしながら、進める修行(信仰)なので、他力本願=他力。

阿弥陀如来様の一切衆生を救う本願にそって、念仏行などによって極楽往生浄土に往生し、成仏することを目指す。

これが、浄土門

禅などの各種の自力修行によって仏になろう、悟りを開こうとする難行道(聖道門)と対比されます。

ここで取り上げた、世界平和の祈り一念の信仰生活は、大まかに言えば、浄土門南無阿弥陀仏一念の信仰と本質が同じで、祈りの内容が還相まで広がって(現界から神界まで往相で昇り、神界から現界まで還相で戻って来て光明を広めるということ)いる分、祈りの内容が進んでいる、言い換えれば、現代により適したものとなっていると理解できるでしょう。

進んだ内容の祈りと共に、神様と(その配された)守護の神霊たる、守護霊さんと守護神さんに感謝しながら生きていく、と。

(*3)私が宗教家の五井先生の存在を知った時、すでに五井先生はこの世の人ではなかった。

お会いすることは、無論叶わず、お声すらも聞いたことがない。

なので、世界平和の祈りが頒布(はんぷ)された、かなり昔のことは、まったく知る由(よし)もない。

残念ながら、いくつかの著作を漁って、当時の雰囲気を想像することしかできないのである。

だが、「生きている念仏」に示された妙好人の生き方や、「五井昌久講話集 1 ~ 5 」を読めば、信仰の要諦はつかめる。

私は、これで十分だと思うのだ。

あとは、どれだけ実践できるかに、かかっている。

なお、お人によっては、自分は一信仰者では飽きたらない、もっと他の人のお浄めをしたり、ミニ教祖(指導者?)になるんだ、と野望を抱いている方も、中にはおられるかもしれない。

しかし、これはとりもなおさず、肉体人間の我欲なので、おすすめできない。

どうしても、そうなる宿命の人なら、守護の神霊さんが、否応なしにそうなるように、お導きになるはずだ。

だから、とにかく、欲をかいたりでしゃばったりせず、持ち上げられても慢心せず、謙虚に自省しつつ、純粋な信仰生活の他は、一切を(守護霊様と守護神様に)お任せしておくことだ。

まあ、正直、私ごときには、お役目のある方のことは、サッパリわからない。

ただ、五井先生は、様々な著書の中で、世界平和の祈りと守護霊、守護神への感謝行、そして、当たり前の生活をすれば、あとは何もいらない、と再三再四述べられている。

なので、お役目のあるかもしれない方も、まずは、この絶対他力の易行道(神様にお任せする易しい信仰の仕方)から、始めてみてはいかがだろうか。

(*4)五井昌久著 生きている念仏(白光出版)での、妙好人達の実例は、かなりできてからのものかもしれない。

彼らでさえも、あそこまでいくには、相当な紆余曲折があったのではないか、と思うのだ。

肉体をまとっている以上、自分に都合の悪いことや病気、争い、貧乏、苦労の各種の出来事を、阿弥陀如来様のおはからいと、素直な感謝で乗り切る心境に至るまでには、かなりの心の葛藤と修練が要ったのではないかな、と。

悪い因果が出てきた時に、忍耐、受容、そして、素直な感謝がわいてくるようになるまでには、それなりの苦節があったのではないかな、と。

それでも、阿弥陀如来様を信じ切り、とうとう、人々の模範となる人格者となってしまった。

彼らを信仰生活の道標として参考にしていけば、ある程度は、日々の想念と行為を整えていけると思う。

(*5)宇右衛門さんは、普通の人(浄土門の教えや因果律を知らない人、もしくは、これらを知っていても、悪い因縁(負のカルマ)を素直に感謝で受け入れることができない人の意)なら、何世かかるかわからないほどの過去世の悪因縁の積算分を、今生(今回の人生)だけですべて清算し切ったのではないか、と思われるほど、素直で純朴な信仰をしている。

普通の人なら、あの中の事例の一つでさえも、乗り越える(=因縁を解消する)ことはできないだろう。

間違いなく、ただでは済まず、新たな悪い因縁を作り、輪廻しかねないところだ。

そこを彼は、過去世の悪い因縁の発現=因果を感謝で受け止め、その清算を難なくこなすだけでなく、同時に周囲の人々を光明化までさせている。

阿弥陀如来様に深く帰依(きえ)することで、神仏としての光を振り撒(ま)き、さらには、周囲の人々を神仏の子として目覚めもさせる。

絶対他力の信仰をきわめれば、どれだけ意義があるかを、実によく示してくれている好例だと思う。

この宇右衛門さんの、普通の人(上記に同じ)なら、日々の難題になるであろう出来事を、何気ない神仏への感謝で対処するあり方は、老子無為自然に通じるものがある。

お見事としか、言いようがない。

ここまで年季が入っていれば、神仏の子としての存在を、この世にあらわした宗教の達人と呼ぶに相応しいだろう(宇右衛門さん自身は、そんなこと(達人どうの)は微塵も意識していなかったと思う。無心なところが素晴らしいのだ)。

(*6)ごく普通の人にはない特殊能力を持っていたり、特別な経験をしたからといって、即、霊性の開発をきわめた人格者ではないのが、この世の習い(残念ながら、現段階ではこうですね)。

例えば、他人の過去世や来世が見えたからと、本人がどれだけ傷つくかも考えないで、軽率なことを言ったりするのが、この典型例だと言えるだろう。

悪い予見があるからと、むやみやたらに放言するようでは、頂けないに決まっているのである。

こんな軽率さでは、人格をみがくことはおろか、宗教家なんて夢のまた夢ではありませんか。

(*7)世界平和の祈り一念の信仰生活は、日々の想念と行為を、たゆまぬ祈りと守護の神霊への感謝行とともに、少しずつ矯正していくものだと思う。

ただ、祈ることと感謝行、そして行いを徐々にただしていくだけだから、特別な道具だてやカネは一切必要ない。

始めようと思えば、誰かれなく始められる自由さがある(既存の排他的で制約の多い宗教にどっぷりと浸かってしまっている人や、家族にそのような人がいる場合は、難しいかもしれないが)。

これといって面倒な戒律もない。

おそらく、戒律の縛りがなくても、想念と行為を整えていくことで、自然と神様のみ心に適う行いができるようになっていくことを、目指しているものだと思う。

完成までどれだけかかるかは、個々人の因縁因果次第になるのだろう。

とにかく、カネと特別な手間が不要なこと、そして、選ぶのも自由であることが、ありがたいことだと思う。

その昔、法然さんは、幅広い人々に信仰の門戸を開いたが、あれと同様に考えてもいいと思う。

あとは、選びとる人の精進次第ということで。

なお、これはあくまでも私の個人的な考えだが、組織に属したりする必要はないと思う。

各自の生活の中で、信仰=霊性の開発をすれば、十分だと。

何かのまとまりが必要になれば、これも守護の神霊様がお導きになると思うので、信仰をしておけば、あとは自然の流れに任せておけば良いと思う。

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(参考)以下、ご参考までに、五井先生の教義と世界平和の祈りを引いておきます。なお、私の判断で読みにくいと思われるものに、カッコ書きで振り仮名を記してあります。

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教義 ~人間と真実の生き方~

人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。

この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。

いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真(まこと)と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

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~世界平和の祈り~

世界人類が平和でありますように

日本(にっぽん)が平和でありますように

私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様(しゅごじん)ありがとうございます

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この祈りは、仕事や家事の合間でも、生活必須時間以外はいつどんな時にしてもよく、この祈り言以外は、特に形式ばったところはありません。

無論、声に出さなくても、心の中で唱えても良いそうです。

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・古色~こしょく~長い年月を経て出た、古びた色つや。

・古色蒼然~こしょくそうぜん~長い年月を経て、いかにも古めかしいさま。
(用例)古色蒼然たる建物。

・要諦~ようてい~肝心なところ。最も大切な点。ようたい。
(用例)教育の要諦。

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①追記: 2024/03/20 06:27
②追記: 2024/03/20 06:30
③追記: 2024/03/20 06:35
④追記: 2024/03/20 10:27
⑤追記: 2024/03/20 10:30
⑥追記: 2024/03/20 14:13
⑦追記: 2024/03/20 16:45
⑧追記: 2024/03/20 16:50
⑨追記: 2024/03/24 17:51
⑩追記: 2024/04/01 04:33
⑪追記: 2024/04/09 09:01
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。