おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

027_色即是空と空即是色

以下は、あくまでも個人的な解釈なので、色々と異論があるかもしれませんが、悪しからずご了承下さい。

なお、基本的な考え方は、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)のものを踏襲しています。

ということで・・・。

般若心経は、お釈迦さんが、観音菩薩の姿になって、弟子の舎利子に、真理=お経、を説いたものです。

そのため、他のお経によくあるように如是我聞(にょぜがもん。私は釈迦からこのように聞いた)から始まらず、出だしが唐突な感じを受けます。

さて、巷には、般若心経の解説書は数多くあります。

その中で、色即是空、空即是色の解説の箇所。

あれ読んでホントに理解できますか?

ピンときますか?

どうでしょう?

何となく、わかったような、わからないような、哲学のような、それでいて禅問答のような、と曖昧模糊(あいまいもこ)とした印象が残るのではないですか?

まず第一。

色即是空

この世のものは空なんだ、実態がないんだ幻なんだ、と言う。

ホントに何だかわかりますか、コレ?

何言ってんだい?

現に、五感で感じ取れる自分の身体があるじゃないか。

それが、空だって?

幻でないって言うのかい?

目の前にだって、机なり、端末なり、それなりの形をした物質=モノが、今、ここにハッキリとあるじゃないか。

何なんだい、おかしなこと言うなあ、と思いますよね、普通。

それに、(神様以外の)すべてのモノは万物流転するのが、当たり前。

それが、何だと言うんですかね?

これは、人間の本体が神様の分霊(わけみたま)=霊魂魄(れいこんぱく)であること、そして、すべてのありてあるものの世界は、神界→霊界→幽界→現界(肉体界、この世)と、波動の異なる世界に分かれていることがわからないと、理解できないのではないでしょうか。

色即是空の色は、神界から発せられた神様の光が、現界まで届き顕現するまでの間に、霊界の下層、そして、怒り、恐怖、嫉妬、憎悪、傲慢等々、真善美に悖る、乱れた想いをタップリと含んだ幽界で、汚れてあらわれたもの、つまり、本体=神様の光そのもののあらわれではない、汚れてしまって、永遠の光輝く神界そのもののあらわれではない、と言っているんです。

この世を始めとして、すべては神様のあらわれなんだ、神様しかないんだ、だから色即是空の色は、本物ではない、幻なんだ、あるようでないんだ、消えてゆくんだ、最後に残るのは、調和のとれた神界の現れだけになるんだ、となるんですね。

だから、虚(むな)しいものなんだ、素晴らしい神様の光の最終のあらわれそのものではないから、ないと同じなんだ、例え肉体の五感の実感として(五感ではあると認識できてしまうから)ないとわからなくても、「ないと見なせるものなんだ」と。

その神界から発せられた光は、霊界の下層と幽界で汚され、真善美に悖る想念と行為になれば、本来神界のものとしてはあるものではないから、現界(肉体界、この世)の中では、あらわれては消えてゆくのが必定、ということなんです。

あらわれては消えてゆき、あらわれては消えてゆき、と。

ただ、自分の本体が神様の分霊だと、心身ともに感得できた人は、ほとんどいないので、納得できる解説にほぼ巡り会えないことになるのでしょう。(*1)

だから、色即是空の色は、消えてゆくから虚しいんだ、幻なんだ、肉体の五感では認識されるから、あると思いがちだけれども、ないと見なせるものなんだ、となります。

翻って、空即是色。

これは、色即是空での色=現界にあらわれたものが、神様の光そのものではないんだ、本体そのものではないんだ、汚れた幻たる色なんだ、とわかって(←ここが超重要です)、そこで初めて空=神様の中から本物の色=実体=神様の光があらわれるんだ、と言っているんです。

修行(難行道か易行道、聖道門か浄土門)を積んで、悟りを開き、空を感得できれば、真善美に悖る病争貧苦のような迷いに満ち満ちた現界とは異なる、真善美に悖らない神界そのものの、素晴らしいものがあらわれてくるんだ、ということですね。

なので、空即是色の色は、神様の光がそのままにあらわれたもの、皆のためになる調和に満ちた光輝く素晴らしいもの、となります。

従って、同じ色と書かれていても、色即是空と空即是色では、その意味するところ(内容)が全然違う訳です。

空も同様(同じ空と書かれていても、色即是空と空即是色では、その意味するところ(内容)が全然違う訳)です。

これがわからないと、おそらく、色即是空と空即是色とつなげてあるのが、何を言っているのかは理解できない。

そして、何故に、色即是空の色の否定をあれほどまでにナイ、ナイ、ナイ・・・と執拗(しつよう)に述べているのかも、また、わからない。

とはいえ、これを感得する境地に達する(=悟りを開く)には、数多(あまた)の過去世の研鑽(けんさん)に次ぐ研鑽の果てに、やっとたどり着く大変なもの(泣)でしょうから、私達一般人には、まず、理解し得ない(泣)。

なので、色即是空の色は、ないんだ、幻なんだ、とナイ、ナイ、ナイ・・・と徹頭徹尾否定していく訳です。

つまり、この肉体の五感で認識できる現界が、神界から見れば幻である、迷妄(めいもう)であることをわからせるために、否定しまくっている、と。

あれもない、これもない、しまいにはお釈迦さんが説いた十八界までもない、と徹底しています。

何で、ナイナイづくしのお経なのか?一体、何を言っているのか?の謎は、ここに集約される訳です。

アイツが悪い、コイツがバカだ、と真善美に悖る業想念のカルマ巡り(←私が勝手に名付けました)を続けていても、輪廻転生から解脱できないだけでなく、神様の調和した世界があらわれてこない、だから、現界(この世)であらわれた理論はどんなに優れたもののように見えても、神様の祈りに導かれたものではない限り、真善美に適(かな)わないために、否定することになってしまうのです。

世界を未だ(というよりまったく)平和に導くことができない、相対した争いを必ず伴ってしまう自分勝手な唯物論の理論のように。

唯物論では、一見、皆の誰もが認識しうる共通認識から話を始めるように見えながら、その実、自己中心的な身勝手な主張のぶつかり合いになってしまうことがほとんどだからです。

だから、神様だけを想い、そして、呼び、何事も祈りの中から始めなさいと、妙好人なら南無阿弥陀仏の念仏、五井先生なら、世界平和の祈りを軸に、日々の生活をお過ごしなさい(浄土門以前の人なら、修行をして空を感得するよう精進すること)、と。(*2)

残念なことに、かなりの程度、過去世の因縁に規定され、潜在意識に溜まっている真善美に悖る想念と行為を、自力で浄め去るのは、容易ではない(というかほぼ不可能?)ので、祈って神様におすがりし(=絶対他力)、過去世からの潜在意識の想念を浄めて下さる守護の神霊さんに感謝を捧げながら、生きて生きましょう、と。

なので、ナイ、ナイ、ナイ、ナイ、ナイ・・・と、凄まじい否定のオンパレードが書かれています(五井先生で言えば、消えてゆく姿のオンパレードですね)。

先に述べたように、現界の様相は、神様の光そのもののあらわれではないんだ、本物ではないんだ、とわからせるためには、あれだけの徹底した否定が必要だ、とお経の作者さんはとらえたのでしょう。

たとえわかってもらえないとしても、人々の後々の霊的な進化(修行での精進による進化)を見込んで、最低限?あそこまでは書いて(否定して)おこう、その必要がある、とお考えになって。

そして、自分が肉体の着ぐるみの中に入っていると感じたり、肉体にまつわる五感の認識が幻だと感じる人は、絶対の極々少数派だと考えて・・・。

更に、日本では、念には念を入れて、「顛倒夢想」が付け加えられたようです。

現界(肉体界にまつわる五感で認識できるこの世界)が本物だと思うのは、「間違った逆さまの認識なんだよ」と。

最終的には本物になるけれど、それは遥か彼方?の将来の(泣)、神界が現界に映(うつ)し出される、地上天国が出来上がる時なんだよ、と。

それまでは、圧倒的大多数の、否、ほとんどすべての過去世の因縁を消化させる霊魂魄の厳しい修行場(泣)が、現界たるこの世なんだよ、と。

ダメ押しの意味だったのかもしれません。

構成に美しさがない?ために、般若心経の作者さんは、勉強していない人がつくった経典云々ボロクソに言う方もいて、修辞に練達した人かどうかはわかりませんが、少なくともかなりの修行を積んで、空を感得した、悟りを開いた人であることは、確かでしょう。

だから、現界が神界のあらわれになっていないことが、ほとんどの人々にわからないことを前提に、色即是空の色の否定を、くどすぎるほど徹底的に述べた、と考えられるのです。

それは、上記の人々の霊的な進化への期待を含んだ意味合いの通りです。

そこで、冒頭の摩可般若・・・度一切苦厄に戻ります。

ああ、そうか。

肉体にまつわる五感に感じられる認識が、空(この場合は幻、神界からの光そのもののあらわれではない)から、ない(=現界での時を経て消えてゆく姿(*3) )と否定すべきなんだと言い、それがわかった境地(悟った境地)から言っていたんだな、と。

といった感じで書いていこうと思います。

以下、続きます。

~~~~~

(*1)私は、キリスト教も仏教も興味がなかった(現世の有り様から期待しなかった)ので、般若心経も漠然と哲学的な内容も含んだお経なんだろう、ぐらいの認識しかありませんでした。

どうせ、解説本もワンサカ山のように出ているだろうし、いつかそのうちテキトーにたしなめればいいや、程度にしか考えていなかった。

哲学的な内容を含んでいたとしても、何冊か参考書を読めば、まあ、何とかソコソコ理解できるだろう、と軽く考えていました。

なぜなら、人気もあるみたいだし、沢山の人々が読誦(どくじゅ~声を出して経文を読むこと)するようだし、著名な人の講演会や著作にも出ている一般的なお経なのだから・・・。

機会があれば、鈍才の俺にだって何とか習得できるさ、と。

ところが。

解説を読んで(聞いて)みると、これがわからない。

モヤモヤとして、まるでピンとこない。

何回読んで(聞いて)も、モワッとしたまま。

意味内容として、ピシッと頭に入ってこないし、理解できないんです。

大変失礼ながら、本を著している(CDで話している)ご本人が本当にわかっているのか?と思わされることも、しばしば(例えば、ある本では、空の中身を 10 個弱に分け、更に云々・・・といった具合)。

これは、一体・・・。

まあ、とは言うものの、私のような鈍才から勝手を言わせてもらうと、翻訳されたせい(つまり、元が外国語だから)なのか、文体のせいなのか、お世辞にもわかりやすい構成、内容とは思えないなあ、悪いけど・・・。

必要最小限?にまとめたから、ああなったのかもしれないけれど・・・。

そもそも、般若経をまとめたなんてよく簡単に書いてあるけど、真から徹底的に理解して納得した人は、本当にいるのだろうか?

中身の濃淡はともかく、あれだけの分量が、本当にこんなに短くまとまるものなのか?

そして、何よりも問題なのは、真の人間とは肉体人間のことではなく霊なる人間であること、すなわち、自分の本体が霊魂魄だと、真からわかっている人は、ほとんどいないのではないか、ということ。

そうでないと、空の意味がまったくわからなくなってしまうから。

・・・と、つらつらと考えてくると、皆あっさり素通りしている?けど、意外と重大な問題を孕(はら)んでいたのではないか?と思わされることが、ままあります。

まあ、現世の欲(行き過ぎた、金、権力、異性に関する欲)などをかかないようにして、素直な気持ち(それこそ、世界平和の祈りのような)で、読誦あるいは写経していれば、問題は起こらないとは思いますけどね、多分。

(*2)心を空っぽにすることなど、よほどの修行を積んだ上根(じょうこん)の人でさえ、簡単にはできないのだから。

これができる人は、それ相応の過去世の積み重ねがある人のみだ、と。

(*3)五井先生の言うところの、いわゆる、「消えてゆく姿」は、これを指すと考えられます。

現界(現世、この世)の現象面に不幸災難などの、様々なものがあらわれていて、自分の本体が神様の分霊だとわからない人がほとんどなのに、いきなり、般若心経や生長の家式に、ない、ない、ない、ない、ない、と言われても、何を意味しているのかわからない、理解できない方が、むしろ自然に思えますね、私には。

なぜなら、私達のほとんどすべては、人間=肉体人間という肉体人間観を脱却していないからです。

従って、先に私が(説明が下手で申し訳ないんですが)クドクドと説明した、現界が神界のあらわれにはなっていないことの内容を全てすっ飛ばして(端折(はしょ)って、省略して)、ない、のたった一言の連呼で済ませているようなものだから。

例えば、A というものが、一つの概念を表すとします。そして、その中身は 5 個の内容を含んでいるものとします。

話を簡単にするために、A はこの 5 個の内容を理解しさえすれば、完全に理解できるものとします。

言い換えれば、この 5 個を複合的あるいは階層的に理解しないと、A を十分には理解できないような、重みはない単純でわかりやすい概念であるとする訳です。

そこで、この 5 個の内、3 個しか知らない、理解していない人に対して、いくら A といっても、漫然としかわからない訳です。

なぜなら、残りの 2 個の必須な内容をわからないし、理解していない訳ですから。

なのに、A と一言、言われただけでも理解が不十分でわからないのに、ただ、A だ、A だ、A だ・・・と連呼されても理解はできませんよ。

明らかに説明が足りていないんです。

しかも、個別的(個人的)に言えば、本人の過去世の因縁による今現在の理解力の問題も絡んでくる。

お経の作者さんは、あらゆる周辺から「攻め寄せていくような言い回し」で、わからせるつもりだったのかもしれませんが・・・。

だから、悟りの段階がかなりいった人でなければ、まず、わからないことになるんです。

従って、この、般若心経や生長の家式の、ない、ないの連呼は、わからない人にとっては、すごく「ぶっきらぼうで不親切」だと思うんですよ。

で、こう言ってはまたまた申し訳ないんだけど、巷の解説を読んだり聞いたりした限りでは、・・・と、感じた訳です。

違う例で言うと、人間は真善美に悖らない完全円満な存在なんだ、だから、病気はない、貧乏はない、と言ったとしましょう。

しかし、これは神体のことだけを言っているんです。

肉体人間は、神体から始まって、霊体、幽体、肉体までまとっている訳ですが、現界たるこの世に肉体をまとって生まれてきたら、(特別の例外を除いて)自分の本体が神様の分霊である神体だとは、わからないんです。

自分の本体が神様の分霊の神体であると感得できたら、悟りを得て輪廻転生のサイクルを卒業で、解脱することになるのですから。

悟るためにこそ修行が必要で、この世に来ているのですから。

更に、現界に生まれてきたということは、
肉体をまとった幾つもの過去世において、神体にはそぐわない汚れ
=神様として相応しくない、真善美に悖る想念と行為をしてしまった、その汚れを落とさなければならなくなった
=現界で病争貧苦などの辛い形をとってあがないをする、
そのために生まれてきた、ということなのですよ。

だから、この世に生まれてきたら、(ほとんどの人が悟りを得ていないんだから)人間は肉体人間だと思っているし、病気や貧乏なども当然にあるんです。

従って、ただ教えにあるからと、概念的にあるいは観念的に、病気はない、貧乏はない、などというのは、明らかに無理があるんです。

肉体人間としてこの世に生を受けたとは、こうしたことなんですよ。

話がそれました。

で、「消えてゆく姿」はこうした、ぶっきらぼうで不親切な「ない」という表現を噛み砕いて、相当に懇切丁寧に手前に引いてきている言い回しになる訳です。

ただ、私個人としては更に、「現界(=この世)で時を経て消えてゆく姿」とした方が、もっと迷わずにわかりやすくなる、と考える訳です。

とはいえ、「消えてゆく姿」は、時の経過を前提とした文言なので、他は一切不用と言えばそれまでですし、これ自体が功徳のある文言であるために、改変はできません。

なので、以上に述べてきたことは、ご理解のほんの一助にして頂けるならば、幸いです。

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①追記: 2022/08/06 11:46
②追記: 2024/03/20 11:10
③追記: 2024/03/20 11:18
④追記: 2024/03/31 02:51
⑤追記: 2024/03/31 03:00
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。