おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

037_未開発霊性

合コンですか。

それまでの相手は切り捨てて、大切にしてもらいたい本命は、財力、容姿を満たしたいいとこどりですか。

合コンで理想の相手を探すのは、こうした意味じゃないですか。

だから、スペックの高いヤりモク男が来たりするんじゃないですかね。

あるいは、本気参加の男は自分の年齢は差し置いて若い女性ばかりを望んでいたりとか。

真の伴侶を見つけるのは、無理じゃないだろうけど、ちょっと難しそうですね。

まあ、女性のことは言えませんよね。

同様なことは、男性にも言えますから。

いや、むしろ、昔は男の方が酷かった。

制度として保証された安定した生活基盤としての地位と権力があったから。

ある程度経験を積んで、あるいは遊んで、女性の扱いに慣れてから、処女と結婚すべき、なんかの古い考え方がその典型ですね。

私に言わせりゃ、じゃあそれまで、練習相手にされた女性達は、どうしてくれるんだってこと。

性別は違えど、同じ神様の分霊(わけみたま)を頂いている人間なんですよ。

それをモノ扱いして、利用して捨て去るなんて、とんでもない話じゃないか。

合意の有無も関係ない。

行為の当事者として、相手の女性をモノ扱いして捨て去ることには、何ら違いはないのだから。

相手の女性との合意の上であっても、本質は変わりませんよ。

また、相手の女性が、自制心がまるでなく、誰彼構わずやりまくっている淫乱だから、利用したって構わない、当然だ、とはならない。

彼女だって、人間であることには変わりはないのだから。

昔、アルバイトしていた時に、その職場の先輩と話をしていて、彼がとある女性のことを「公衆便所」と呼んでいました。

鈍い私は、初めは彼が何を言っているのか意味がわかりませんでしたが、しばらくしてからやっと理解しました。

残念なことに、世の中には、こういう人(女性)が存在するらしい。

しかし、だからといって、どんな人でも利用して構わないとはならない。

人間なんだから。(*1)

考えてもみて下さい。

人間は誰しも人間なんです。

過去世の違いによる、神様の分霊たる霊魂魄の相違、そして、その分割と結合、守護神様の光の大きさの違いはあれど、本質は変わらないのです。

本体は、同じ神様の光の別れた一筋、一筋の光、霊光なのです。

どんなに、過去世からの因縁因果が異なり、この世では、各々、人種、性別、身分、容姿、才能が、違った形で現れてきていても。

人間は皆等しく神の子であり、兄弟であるとは、こういうこと。

そこで、です。

公衆云々と呼ばれてしまった彼女も、自分のかけがえのない大切な女性も、同じ人間だ、ということなんです。

自分の大切な人を、練習相手にして、やり捨てることなどできますか。

できるはずがない。

そもそも、いかなる相手に対しても、神性を見ることのできる霊性の高い人ならば、絶対にできることではないのです。

こうやって、肉体人間の自分と、ごくごく近しい身内だけを大事にして、あとはどうでもいい、お構いなし、とするのを唯物論というのです。

人間=肉体人間と捉える、肉体人間観の典型的なものの見方、考え方ですよ。

はじめにキツイこと言ったけど、ほとんどの人が肉体人間観を脱していないんだから、合コンも仕方ないかもしれませんね。

旬の時期が限られてる?(*2)のに、禁欲を強いるのも、情報過多の現代、酷かもしれませんから。

以前、当時二十歳前(はたちまえ)だったある女性(*3)に尋ねたことがあります。

友達の意識はどうなの?、と。

彼女の答えは、こうでした。

みんな、飢えてるよ、と。

とても、素直で正直な回答だったと思います。(*4)

私は、お経や仏教をかじりだした時に、稚児の存在を知り、大ショックを受けました。(*5)

何だ、やっぱり禁欲なんかできてないじゃないか、と。

ここまで、いびつなことをするくらいなら、妻帯の方がよほど自然だし、理にかなっているじゃないか、と。

禁欲できる人は偉いけど、相当な苦行となるし、自然な男女のあり方に反するだろうし、やはり無理がある。

表立ってはいないけど、どうも親鸞さん以前にも、奥さんがいた僧侶もそれなりに存在していたらしいからね。

何が言いたいのかというと。

思春期を過ぎたら男女とも禁欲を強いるのは、難しい、無理がある、不自然だ、ということ。

神性を元にしない唯物論では、どんなに哲学で理屈をこねようが、人生訓をたれようが、自己保存の本能による身の回りの利害得失計算からくる取捨選択の軛(くびき)(*6)を逃れることはできないからですよ。

じゃあ、どうすればいいんだ、となるとこう言います。

世界平和の祈り一念の生活をして、守護霊さんと守護神さんにお任せしましょう、と。

たとえ、波乱万丈な人生がもたらされようと、平穏な人生が訪れようと、過去世から来世以降までのすべての因縁因果を含めて霊の目で俯瞰(*7)して、見通されている守護の神霊さんが割り当てて下さるのだから、間違いはない、と。(*8)(*9)

この世に生を受けた以上、自分を試したい、挑みたい、といった気持ちは誰しも当然あるでしょう。

まして、女性は自分中心に世界が回る性(さが)を内に秘めた女優ですからね。

しかし、だからといって、唯物論の功利的な立ち回りをしさえすれば、果たして事が上手く運ぶか、といったら、どうでしょう?

残念なことに、結果はむなしいものとなってしまいがちなのではないですか。

だから、個人個人の心身ともの安定と、その集積たる社会の安定のためには、神性を元にした信仰が必要だと考えられます。

それには、世界平和の祈り一念の生活をお願いします、といういつもながらの結論になります。

~~~~~

(*1)行為の当事者たる男性も神様の分霊を本体とする肉体人間であり、相手の女性も、どんなに淫乱で自堕落であろうとも、神様の分霊を本体とする肉体人間です。

従って、快楽や功利目的で、利用し、利用されることは、本来、あってはならないことになります。

ちょっと、厳し過ぎるかもしれませんが、理屈から言えば、こうなりますね。

(*2)わずかな期間に、人生のすべてを賭ける?なんて、随分、刹那的ではかないですね。

それでも、唯物論的な物質的な幸福を基礎に据えた狭き門に挑まないではいられないのが、肉体人間観の染(し)みついた人間の性(さが)なのか・・・。

そこが、またいいんだ、たまらないんだ、と思っているのかな。

何とも言いようがありませんね。

まあ、強いて言えば。

彼ら(彼達や彼女達)は、自らの要求や満足度を得る=相手から与えられるもの、ばかりにこだわり、自ら相手に与えることを忘れている、かな。

従って、無条件に与える一方の無償の愛(あと、感謝ね)には、無縁なものになっている、とは言えますね。

恋人になり、夫婦になり、家族になって必要となるはずの、肝心要(かんじんかなめ)の無償の愛が存在しない・・・。

何と皮肉な内実・・・。

とにかく、要求水準を満たした相手を確保するのが先だ、愛情はあとからついてくる、とでも考えているのかな。

自分は舞台に上がる要件を満たしているんだ、相手にそれなりの水準を求めて何が悪い、と開き直られてしまったら、どうぞお好きなように、と言うしかないね。

まあ、人間である以上、(現世か来世以降になるかはわかりませんが)霊性の開発は、いつかは避けて通れないから、心の片隅にはとどめ置いて下さいね(何だか、負け犬の遠吠えみたいになっちまったな)。

(*3)風俗関係の人ではありません。ごく普通の一般女性です。

(*4)私見ですが、女性は二十歳前後の時期、独特のにじみ出るような美しさがあって、やはりご本人達もそれを自覚しているがゆえに、これに見合った恋愛をしたくなるのだと考えられます。

(*5)ショックのあまり、しばらくは、何ともいえない不安定な気持ちだった。

当時の時代や社会状況、そして、時代を問わず男として消し去ることのできない激しい煩悩を鑑(かんが)みて、仕方がないのかなあ、と納得というか理解するまで、随分時間がかかってしまった。

あれほどまでのことをして、無理矢理煩悩を抑え込んでも、やはり、霊的な交流をも含めた、本物の女性との交わりがないと、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。

なので、いずれは、消滅すべき習わしだったと思います。

(*6)くびき~動きを縛るもの。制約。

(*7)ふかん~ある視点から全体を見渡すこと。

(*8)私は、因縁因果により、生涯恋愛しない、あるいは、結婚しない男女はいると考えています。

が、巷には優しい人(霊感のあるカウンセラーの女性の方)もいて、運命の赤い糸は、多い人で 5 本くらいある、とされています。

確かに、殊に女性は基本的に生む力を持ってこの世に生を受ける訳で、それだけ様々な修行が加算されて大変ですから、このほうがロマンチックで夢があっていいですよね。

女性が恋の炎に命を燃やし尽くしたい(と、併せて、愛する男性との奥深い一体感を得て、心身ともに快感を極め尽くしたい)衝動を持つこと、他方、忍耐強く、我慢強く、実は男をしのぐしたたかさを持つことなどは、すべて、神様のお計らいであるように、思えるんですね。

すべては、人類の存続と発展、そして、霊性の開発の下地として与えられている、と。

上記のような悲観的な見方をしてしまうのは、その人その人の生き方、とりわけ、欲にかまけて野放図なやりたい放題の、真善美に悖りまくる、デタラメ極まる生き方をしてしまったら、残念ながら、神様の分霊を汚してしまったそれなりの代償は(主として来世以降)払わざるを得ない、と考えるからです。

まあ、中には人々を救うために、崇高な使命を持たされて、併せて、高潔に生涯をまっとうされる方もおられる、と考えられます。

本当に、人それぞれとして、ですね。

(*9)例えば、いわゆる、イケメンに限る、と顔面・容姿至上主義に徹底的にこだわり、かつ、実践して、既に望みの彼を、恋人なり、配偶者なりで、獲得している女性がいるとしましょう。

彼女が何らかの縁を得て、霊性の開発を始めることになったとします。

この場合、慌てて?霊性の開発に一生懸命勤(いそ)しんだとしても、彼を繋ぎ止めておけるかどうかは、わかりません。

すべては神様のみ心のまま、守護の神霊様が、彼女の来世以降までを含めた、過去世からの因縁因果を勘案して、最適とお考えになるように、導かれることになります。

ですから、彼との過去世からの因縁因果を鑑みて、別れた方が良い、とご判断されれば、別れることになります。

つまり、現世での唯物論上の損得勘定を考えたご利益信仰ではない、ということです。

あくまでも主眼は、肉体人間の本体、輪廻転生を通した霊魂魄の成長におかれるからです。

なので、何だ、現世での唯物論的に努力して達成した幸福が壊れてしまったじゃないか、願いを叶えてくれなかったじゃないか、と恨んだり、呪ったりすることは、あたらない、と。

一切を守護の神霊様にお任せする生き方です。

お任せとは、そういうこと。

結果がどのようなろうと神様にすべてお任せ。

良い結果がもたらされようと、悪い結果がもたらされようと、神様が輪廻転生を通した自分の魂(霊魂魄)を立派にするために、思し召して下さることだから、感謝する。

何もかもが、すべては神様のおかげです、ありがとうございます、と。

良い結果がもたらされたら、ありがとうございます(私達唯物論の考えに縛られてしまっているとこれだけになりますね)。

悪い結果がもたらされても、ありがとうございます(ここまでできて、本当の神様への感謝となる)。

肉体人間観を脱することができない、ごく普通の私達には、なかなかできないことではあります。

これと同様なことを、すべては阿弥陀如来様のおはからいと、感謝して実践された古(いにしえ)の信仰者が、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人達なのです。

(追記)
これを書いたのは、だいぶ前だったから、合コンなどは、今の時期にはまったくそぐわないかもしれません。

やっぱり、出すのが遅くなりすぎたみたいで。

仕方ないですね。

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①追記: 2024/03/24 21:42
②追記: 2024/03/31 05:45
③追記: 2024/03/31 05:50
④追記: 2024/04/19 18:58
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。