おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

068_玄奘さん2

( 067_玄奘さん - おぶなより ) の続きです。

玄奘三蔵さんと仏教とお経について、まだ、いくつか疑問点があるので、これを書きます。

1.玄奘三蔵さんについて

彼は、仏教に絶望することはせず、人々を救う可能性を託して、命懸けの経典の学習と取得のための難路往復と、その後の翻訳作業に生涯を捧げている。

①彼は、なぜ仏教に絶望しなかったのか?

いくら、伝道の行き違いや、不十分さはあったとしても、彼の目から見たら、当時の社会を救うことを、全然できていなかった訳です、仏教は。

彼が、出立(しゅったつ)を決めた要因には、間違いなくこれが含まれていたはずです。

ならば、未だに学習しない部分の潜在的な可能性にも見切りをつけて、仏教の一切の可能性を捨て去り、僧侶をやめようとしなかったのは、なぜなのか?

どうしても、人救いがしたければ、なぜ、新たな宗教を興(おこ)す道を探ろうとはしなかったのか?

彼の人柄からすると、おそらく、人救いをやめて、自暴自棄になることはあり得ないでしょう。

人救いは外せない。

しかし、仏教にこだわるのはなぜ?

まだ、仏教の内容の伝達が不十分で、残った教えがあり、まだ、人々を救う可能性を秘めていると確信、推測したから?

それまで、打ち込んできた僧侶としての人生が、無駄になるから?

しかし、彼は、まだ若かった。26、7才なら、他の道で、一からやり直すとしても、十分に可能性があったのではないか?

お釈迦さんが 29 才で出家、独自の修練の末、35 才で悟りを開いたのですから、彼はさらに少し若いのです。

彼がいかに秀でた人物であったにせよ、釈迦に匹敵したか否かはわかりませんが、独自の道を切り開く手もあったのではないか

彼は幼少の頃から青年期まで、極めて優秀な人だったようなので、彼ほどの優秀さがあれば、既存の宗教とは異なるまったく新たなものを開拓してやっていける可能性もあったのではないか?

仮に、彼がその計算をしたとして、やはり、時間がかかり、非効率的で、その後の人生では賄えそうもない、と判断したからなのか?

それとも、無理繰りで不完全かもしれないけれど、仏教に望みを託して、賭ける方が手っ取り早い、なだれ込み邁進するしかないと判断したからなのか?

彼が過去世からの因縁因果の下、経典の会得と翻訳にすべてを費やし、捧げ切る定めだった、あるいは、神様のお導きがそうなっていた、無意識的な反応だったのだと言ってしまえば、それまでなのかもしれませんが、ちょっと気になったものですから。

玄奘三蔵さんが、何をどう考え、あのような選択をしたのか、それとも、周りの環境要因はすべて既定で、半ば無意識的にあの道を選んだのか、どうだったのかを、ちょっとだけ知りたいなあ、と。

彼の生涯を読むと、あー、とてつもなく偉い人がいたもんだ、現代の宗教家には、まずいないな、こんな凄い人、で簡単に済ますのが普通なのかもしれない。

余計なつまらない、重箱の隅をつつくようなことなど、一切考えなくてよい、とするのが、一般的なのかもしれませんが、ちょっと引っ掛かったものですからね。

②彼は、大部の経典のあり方をどう考えていたのか?

彼が訳した経典のみならず、その他の訳や、その後、後世に加えられた経典を含めた大蔵経(一切経とも呼ばれる)を、大型書店で手にとって見るとわかりますが、あんな大部の無味乾燥な何十冊もの大百科事典のような書籍は、一般生活に馴染むとは、到底、思えません。

大蔵経は、ほぼ素のままで、一般に出回っている各種のお経の解説書のような、懇切丁寧なふりがなや注釈、まして、解説などほとんどありません。

勉強しようとすれば、おそらく、自ら書き込みながら、大変な手間と労力を要します。

デカクて、重くて、扱いにくいことこの上ない。辞書や百科事典と比べても、明らかに使いにくい(本当にすみません。逆に言うと、これだけの環境に恵まれなかった昔の人達は、いかに大変だったかともなりますが)。

あれは、研究者用か、保存用、金持ち用?( 1 冊が、16,000 円から18,000 円程度する)としても、せめてもう少し小さなソフトカバーのものがあれば、学習には使える可能性が(あるいは)あるかな、とも思える。実際、どれだけ、取り組み、購入するかの、採算面は別にしても。

なので、おそらく、専門の研究者やお坊さんなどの宗教家でも、手に余るのではないでしょうか?

いくらお釈迦さん(後の仏陀、以下、仏陀とする)の教えを説いた経典とされても、常軌を逸する大部さです。

玄奘三蔵さんとともに翻訳にあたられていた協力者が訳した分だけでも、凄まじい量です。

これらを翻訳しながら、彼らは、大部の経典のあり方を、一体、どのように考えていたのでしょうか?

終局的には、お釈迦さん(仏陀)の教えを広め、人救いを目指すのは、当然にしても、その遠い将来も見据えた在家信者をも含めた活用の仕方をどのように念頭に入れて、作業をしていたのか。

宗教家の五井昌久さんは、各種の個人相談や集団のお浄めや法話をされる時、当意即妙に自在に対応されていたようです。

肉体の五井先生は、直霊の五井先生そのままに、神様の受け器となって、神様の広大な知恵が中から、待機説法よろしく、適宜、必要なものが引き出され、活用されていたのでしょう。

しかし、五井先生の水準はもちろん、妙好人の水準さえ、遥かに及ばない私達(の大半)には、こうしたことは、いかに一般人として霊性が高い人でも、できません。

そんな私達が、霊性を高めようと、お経を縁(よすが)とする場合には、学習の限度も自ずと定まってしまいます。

従って、大部のお経があれば、ある程度、取捨選択して選びとることが、当然になるでしょう。

実生活に反映させながら、自らのものとして、お経を消化、吸収、定着させ、運用することも考えれば、少なくとも、難解至極なもの、扱いにくい大部のものは、適さないからです。

そこで、玄奘三蔵さんを始めとして翻訳にあたられた人達は、たくさんの人に合わせる形で、それなりに方便も必要となるから、辞書的に引く意味合いも含めて、できる限り多くのお経を取り揃えようとして、翻訳に励んだのか?

それとも、とりあえず、持ち帰ったものはすべて、お釈迦さん(仏陀)の言葉なのだから、とにかく時間の許す限り、細大漏らさず訳すだけだ、と翻訳に取り組んだのか?

あるいは、それ以外の意味があるのか?

と、考えてしまうんですよ。

端的に言ってしまえば、やはり、ありすぎだとしか思えないんです。

最も短い部類に属すると思われる般若心経の一般解釈ですら、あの状態なのに、あの莫大な分量、どうするんですか?

般若経とは違いますが、私は正直言って、法華経もよくわからない。五井先生の教えを知ったことで、かろうじて、ほんのちょびっとわかるようになった。

唯物論の思考で理解しようとすると、何を言っているのかわからないところがたくさんあるんです(俺だけかもしれないが・・・)。

仮に、意味を完全に自分のものとして理解できていない場合でも、読経をするだけでも、大変な量です。

神様にお教え頂くことが可能なら、玄奘三蔵さんのような方に、この真意を解き明かした上で、講義をして頂くのが、一番だと思うんですけどね。

お経の言葉には、神仏の光や力が宿り、素晴らしいものらしいので、こんなことを言っていたら、仏教関係者には、怒られてしまうかもしれません。

ですが、実際に、ほとんどの人が霊性が低く神様の受け器にはなれない、神催しにはなれないこと、そして、その学習能力も千差万別であり、特定の宗派のお経を会得するだけでも、容易ではないことを考えると、やはり、多いと思わざるを得ない。

八万四千の法門だとしても、実際に使われるのは、かなり、限られるのではないか?

その、遥か遠い将来を見越して、玄奘三蔵さんを始めとする人達が、大部の経典のあり方や扱いを、どのように考えていたのか、知りたいなあ、と。

③経典の翻訳の水準は、終始一定のものだったのか?

何事でもそうだと思いますが、物事を続けていく場合には、取り組み始めと、ある程度作業に慣れて脂(あぶら)が乗ってくる時期があります。

この差が、翻訳作業の当初と中盤、終盤で生じることはなかったのか、あるいは、翻訳作業を進行しながら定期的に、校了分を見直し、改訂を続けていたのか?

それとも、始めから、これ以上ないほどの、神仏水準?に近い最高水準の翻訳ができていて、その張り付いた高水準で、順調に翻訳がこなせていたのか?

巷では、それまでの訳を一新する素晴らしい出来云々と書かれていますが、これは、おそらく一定の、今風に言えば、神レベルの翻訳が、終始一貫してなされたように受け取れる。

ここも、普通なら、へー、で通過して終わりなのでしょうが、編成担当者間で、 1 年、あるいは、数年ごとの見直し作業をしていて、本当に試行錯誤のカケラもなかったのか?改訂は?校了は?とあらぬ邪推をしてしまったものですから。

以上、玄奘三蔵さんに関連して3点ほど、チマチマと細かいことですみませんが、気になったことをあげてみました。

後のことを考えると、そのうち忘れてしまいそうなので、備忘録として記します。

2. 1とも関連しますが、お経の分量とその内容です。

私のような低能力な人間からすると、何でこの内容をわざわざこれだけの長さをとって表すのだろう?何でもっと要約、圧縮しないのだろう?比喩なのかよくわかりませんが、何でこの讃歌にこんなに多くの表現を費やすのだろう?というように、そのかける長さと、延々とする讃歌の意味合いが、理解できないことがありました。

前述したように、お経には神仏の光や力が宿っていて、霊験があるものらしいので、この大馬鹿者め、と怒られてしまうかもしれませんが、当初読んだ時の感想です。

そうは言っても、私は法華経の第二十五の観音経の偈(げ)の部分は好きですけどね。たまたま、買った CD 付きの観音経の本のお坊さんの読経が、その読み方のせいか、何か躍動する物語のように感じて、思わず口ずさみたくなるような感じだったからです。時間は、5 分半から 6 分かかりますけどね。

3. 2とも被(かぶ)りますが、仏教の大部さです。

後世の高僧さんも、さすがに分派した上に、お経の量か莫大なものになってしまったので、何とかしよう、さらに言えば、自らの信奉するものを、第一と位置づけよう、と考えたのではないでしょうか。

だから、お釈迦様さんの本来の教えが云々という話になる。

前に、遺伝子の情報が、神様の神業としか考えられない精巧・精緻になっている学者さんの話を引きましたが、あのように、大部のお経が一回でも潜在意識に入って、それを自在に引き出せる超能力や霊性の高さがあればいいのでしょうが、これはまずあり得ません。

一回通読して、潜在意識に入れるだけでも、大変な作業量で、とても現実的とは言えないからです。

しかも、各お経の文言に、神様の光や力が宿る、いわゆる、功徳かあるとされていまうと、本当に困ったことになってしまう。

お釈迦さんは、解脱をされたのですから、もう、生まれ変わって、この世に出てくることはない。

ですが、先の玄奘三蔵さんの話ではないですが、このような状況を解決するのは、お釈迦さんしかいないと思うんですけどね。

各宗派も、お釈迦さんを拠り所としている以上、まとめあげて納得させるには、これ以上の適任者はいないのだから。

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追記: 2024/04/06 08:45
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。