おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

464_平穏

仏教はなぜ大蔵経のように経典が肥大化したのであろうか。

時代の推移とともに開かれたものにしなければ、多くの人に親しんでもらえないから?

その暗黙の前提としては、やはり、すべての人は悟りを得るべき、あるいは、悟りを得るに越したことはない、もしくは、悟れないまでも、少しでも人格を向上させることが望ましい、との発想があったのだろう。

そうすれば、世の中もよくなるだろう、と暗黙のうちに考えているのだろう。

少数精鋭の選ばれし者(エリート)だけに向けたお経ならば、掘り下げるにしても、あまりにも程度が過ぎる。

明らかにやり過ぎだ。

あんな字だらけがビッシリと並んだ数十冊もの、それも各一冊一冊が大部の書物を、一体、どうしようというのだろうか。

漢文に翻訳された当時は、今よりもはるかに印刷技術はなかったはずだから、もっと細分化された、かなりかさばったものであっただろう。

印刷技術が発達して、立派な製本にされてさえ、今のあの状態なのだ。

それが遠く及ばない翻訳当時のはるか昔の技術なら、どれだけ不便でかさばることか、想像に難くない。

それにしても、翻訳された漢文が規定値な民族ならばいざ知らず、外国人には荷が重過ぎる。

さらに、研究職ならばいざ知らず、実践して悟れなければ、いや、悟れないまでも何がしかの霊性の向上(人格の向上)がないのならば、お経は絵に描いた餅ではないのか。

私は悪口を書いた罪滅ぼしに(にならないかもしれないけれど)一冊買ったけど、とてもじゃないが読めたものじゃない。

デカイ、重い、超難解。

解説も専門的で簡潔過ぎる。

素人、それも力不足の人間には、本当にどうしようもありませんよ。

おそらく、専門的で懇切丁寧な注釈書をつくろうとすれば、さらに大部なものとなるだろう。

大事なことは、簡にして要を尽くしてこそ、大衆化できるし、普遍化する。

なぜ、そのように考えないのだろうか。

お釈迦さんの後継者さん達は、八万四千の法門の教えを網羅する字引でもつくるつもりだったのだろうか。

知恵も霊性もまだまだ未熟な肉体人間には、あのような重厚な大部作品の積み重ねは、人々の混乱と理解の障壁をもたらすだけではないのか。

八万四千の法門、つまり、無数の場合に対応させるのは、神様(仏様)の知恵だけだ。

こんな適材適所、臨機応変な知恵は、悟りを得なければ出てこない。

すべての人にあれを買わせる、あるいは、普及させることでさえもまったく現実的ではない。

経典を大部化させた人達は、一体、何を考えていたのだろうか。

肉体人間で悟りを得ていなければ、一生のうちにできることはそんなに多くない。

かなりの程度限られている。

ましてや、肉体人間としての命は有限で、生き方以外に多大な時間を準備期間として強いられたら、どうしようもないのではないだろうか。

悟りを得て、神様(仏様)の知恵が自ずとわき出るようになれば、いいだけのことにはならないのか。

原始仏教の経典だけでも、お釈迦さんの死後につくられ、細かく解釈がいろいろにわかれている部分がたくさんある。

原始仏典という中村さんの本を読んでいても、それは端々で感じたことだ。

あまり確定的にはできないことが、意外にも多い。

それが一般的な仏教の本では省かれていることが多いだけ。

初期の仏教の経典に関してさえそうなのだ。

あれを読んでいると、本当にお釈迦さん自体が、短い、それも極端に短い指針の言葉を作ればよかったのに、あるいは、そのように言い遺(のこ)したらよかったのに、とつくづく思う。

お釈迦さん発祥の地、インドでは、仏教はもはや細流だ。

ほとんどなくなってしまった。

とは言うものの。

お釈迦さんのほどの人だ。

こうした初期仏教からはじまる経典の際限ない(?)肥大化や祖国インドでの仏教の細流化は、存命中からその神通力で十分にわかっていたはずだ。

だから、なおさら思うのですよ。お釈迦さんは、おそらく万人を愛する人だっただろうから、国にはこだわらないのだろうが、今の祖国インドにおける仏教の様相をどのように感じているのだろうか、と。

お釈迦さんは、悟りを得てから亡くなるまで、45 年もの間、人々に人生を捧げた。

もちろん、お釈迦さんのことだから、欲も得もないだろうけど、やはり、自らの教えや、その教えそのものではなくとも、少なくともその流れを汲む教えが、祖国インドからはじまり、次第に世界に波及して、そうして人類が平和になることも望んでいたのではないか、とも思うのですよ。

それからすると、今の祖国インドの現状は・・・。

まあ、能力不足のズブの素人の感想です。

失礼致しました。

話を戻します。

世の中を良くすること。

では、なぜ世の中を良くする必要があるの?

それはなぜ?

やはり、生存競争にさらされるといやが上にも巻き込まれる、不安と恐怖の避けられない生活は嫌だから?

ならば、自分だけ勝ち抜いて、少しなりとも安心すればいいんじゃないの?

なぜ、自分の身の回り以外にまで範囲を広げるの?

共存共栄ができれば、自分も安心する確率が高くなるから?

結局は、自分のため?

無意識だと思うけど、やはり、それだけにはとどまらないような気がする。

なぜに、肉体人間は、平和や安穏、安寧を求めるのか。

この問いに対する答えを、仏教に関してこれから見いだしてみたいと感じている。

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・安穏~あんのん~変わったこともなく、穏(おだ)やかなこと。平穏。
(用例)安穏に暮らす。

・安寧~あんねい~世の中が穏やかなこと。