おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

144_原仏2ー2

前回 ( 143_原仏2ー1 - おぶなより ) の内容の補足で、肉体人間の一生についてです。

前回 ( 143_原仏2ー1 - おぶなより ) で、この世に起きてくる事柄は、いいものも、悪いものも、その他、人間の五感で感じることができるものも、何もかも、すべて、時を経て消えてゆく姿であること、そして、ただ、あるのは、最終的に残るのは、神様としての命、み心だけなので、肉体人間の一生は、おそらく、その中のほんのわずかにしかならない、とごく簡単に、いわば、アッサリと書いてしまいました。

そうは言っても、なかなか、納得できないのが、私達肉体人間の性(さが)だと思います。

なぜならば、私達の大半、おそらく、圧倒的大多数、否、ほとんどすべての人は、肉体人間こそが、人間そのものであり、だからこそ、五感で感じ取れる身にまつわるものに執着して、少しでも肉体生活に有利なものを、保持したい、失いたくないと考えるからです。

私は、たまたま、病気などの不可抗力で苦しむような経験をいくつもしている(今も続いています)ため、否応なしに霊性に触れる因縁があったから、このような霊性にまつわることについて考えるようになり、こうした考え方にまでいたりましたが、やはり、納得できている訳ではありません。

まあ、これが心身ともに納得できたら、悟れたことになる訳で、こんな心境には程遠いですから。

この五感に感じられて肉体生活を運ぶために有利なもの、肉体そのものの、若さもそうだし、健康もそうだし、生活を有利で快適に運ぶためのお金や各種の財産もそうだし、みんなそうです。

これらが、失われていくことを極度に嫌い、おそれ、危惧する。

そして、いかに確保していくかに、東奔西走する、苦労させられるようになっていると思います。

場合によっては、狂奔することすらあるように。

どうしたって、こだわらずにはいられない。

お釈迦さんの時代に都市国家ができはじめてきたとは言っても、何せ今から二千五百年も前の話です。

現代では、当時とは比較にならないほど、生活の便利さや快適さが整えられてきていて(それとは引き換えに、自然や環境破壊されていますが)、当時のような簡素な生活をする修行遍歴者となることは難しい、というか、まずはできない。

まあ、有り体に言っても、時代状況それ自体も戻れない、戻すことはできないと思います。

仮に、戻らざるを得ないことが起きた場合でも、その環境に順応していくには、かなりの時間を要するのではないでしょうか。

お釈迦さんの時代でも、現代でも、社会は不平等、不均衡に満ちていて、矛盾や苦難があるから、なかなか、ありがたみはわからないかもしれない。

しかし、このように時代が進んできてしまった以上は、この境遇のなかで、地道に霊性の開発をしていくより仕方がないと考えられるんです。

少なくとも、唯物論に縛られたままでは霊性の向上(唯物論者の人にわかりやすく端的に表現すれば人格の向上)は望めない。

そこで、発想を切り替えることはなかなか難しいとは思いますが、何とか祈りだけでもしていただけたらなあ、と考えて、何度も世界平和の祈りのお願いを繰り返してきた次第です。

肉体にまつわる想念を、様々なとらわれを離すことは難しい、というか、不可能に近いから、とにかく、世界平和の祈りでこのきっかけを作り出して頂きたいとお願いしてきた訳です。

肉体人間観の脱皮は難しいから、祈りで韓非のいう、蟻の穴をあけるように、と。

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①追記: 2020/10/30 19:13
②追記: 2024/04/08 12:12
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。