652_ひしみー073
07 禅定と苦行、そして中道
・沙門ガウタマはなぜ苦行をしたのか
ちょっと足踏みした内容で、繰り返しになり、申し訳ないのだが、とりあえず、念を入れたいの点があるので、また、このテーマについて書くことにする。
ご了承頂きたい。
それは、
前々々回( 649_ひしみー070 )の内容と、
前々回( 650_ひしみー071 )の内容に、
辻褄を合わせておきたい、
整合性を保たせたい
という話になります。
以下の 2 つを、便宜上、それぞれ、A と B とする。
A.前々々回( 649_ひしみー070 )
古代インド人は、苦行をすると、その行者に熱的物質(タパス)が蓄積され、神秘的な超能力が得られると信じていたという話。
B.前々回( 650_ひしみー071 )
私達肉体人間は、本体が神様の分け命であるがゆえに、本来的には、神体のように真なるもの、善なるもの、美なるものを好み、真善美に悖らない自由自在を求め、愛と勇気に満ちた存在であるという話(愛と勇気に満ちたのくだりは今回書き足した)。
まずは、A について。
古代インド人はなぜ苦行をするのか?
現代のインドにもこうした人はいるらしいが。
神秘的な超能力を得ると書いてあるが、では、なぜ人はその神秘的な超能力が欲しいのか?
他人に見せて優越感に浸るため?
自己満足のため?
その神秘的な超能力を活かして、思う存分に欲望(ここでは肉体の五感にまつわる欲望を想定している)を叶(かな)えたいため?
古代インドの人々は、なぜ、苦行によって神秘的な超能力を得ることを欲していたのか?
現代に通じるような、唯物論的な欲望、すなわち、この世をつつがなく上手く渡り、あわよくば他人を出し抜く、それもできることならば、飛び抜けて出し抜くことによって、贅沢三昧、豪華絢爛な生活をするための手段という意味合いも、もちろん、あるだろう。
男性の場合についていえば、いい仕事をして他人から羨望の眼差しを浴びたい、いい家に住みたい、いい女性と付き合いたい、など五感を十二分に満足させる、ゆとりある暮らしをすることがこれに当たるだろう。
しかし、本当にそれだけだろうか?
やはり、古代インドの人々が、おそらく無意識的に、修行に打ち込んだり、苦行をしたり、というのは、現段階での自分が、自分の可能性が、まだまだである、もっと高みにのぼりたい、という気持ちがあったからではないだろうか。
その高みというのは、当座は現代の唯物論的な欲望も、多分にあるかもしれないが、やはり、神様の分け命としての力をあらわしたい、神様の子供としての力をあらわしたい、真善美に悖らず完全円満で、(真善美に悖らない範囲で)自由自在になりたい、という気持ちが根底にあるからではないだろうか。
しかも、このような形を目指せば、人格の向上も自然についてくることになるから、(もちろん、これも無意識的に求める内容に入るが)願ったり叶ったりになる。
唯物論の大成功者のように、権力や金にあかして傲慢な態度をとることもないだろうし、羨ましがられたり、妬(ねた)まれたり、嫉(そね)まれたりすることもない。
もしも、行き着くことができるならば、理想的な形。
転輪聖王のように、理想的な者となれる可能性がある。
つまり、大元は、根っこは、無意識的だとは思われるが、修行に打ち込むのも、苦行をするのも、神様の子供としてふさわしく生きたいがため、ということが言えると思う。
次に、B について。
私達肉体人間は、主として過去世で溜め込んでしまったの真善美に悖る想いと行いの業想念を輪廻転生を通して清算する、償うためにこの世に生まれてくる。
容貌は美男美女、才能に溢れて豊か、生まれは超素封家(そほうか)なんてことは、滅多にない。
まず、あり得ないだろう。
そんな人は、よほどその輪廻転生を通した、たくさんの過去世において、心清き行いを数えきれないほどして、人のためにつくして、人のために惜しげもなくお金を援助して、という人くらいしか考えられない。
大半の人は、おそらくそうではない。
普通か、普通より良い容貌に生まれついても、才能に恵まれていなかったり、お金に窮していたり、病気があったり、不幸があったり、などと完全ではないはずだ。
この世では、肉体人間としては、肉体を持つがゆえに、大半の人が、生・老・病・死といやが上にも向き合わなくてはならなくなっている。
そうして、五感にまつわる欲望にかまけて生きていたり、他人とかかわることにより生じる軋轢や不幸から離れて、もっと、自由に生きたい、さらには、もっと気高く生きたい、と人格の向上を含めて自然に修行(人によっては苦行)に目が向くようになる。
この雑多な世間の生活やゴタゴタや苦しみや老いや病気などから離れて、少しでもよく生きたい、と思うようになる。
これが、この根っこが、やはり、無意識的だとは思われるが、宗教に入るのも、修行に打ち込むのも、苦行をするのも、神様の子供としてふさわしく生きたいがため、ということになると、考えられるのだ。
つまり、A も B も、同じ無意識的な、神様のお命を本質とする者として、神様の子供としての、神様としての本質をあらわしたい、というあらわれだ、ととらえることができる訳です。
従って、
精神を解放して自由にするだの、
精神力を高めるだの、
というのは、
修行や苦行と同じで、
肉体人間として生きながらも、
神様の本質をあらわしたい、
そのあらわれ、
ということです。
なお、蛇足ながら、神秘的な超能力について、つけ加えると。
肉体を持ちながら、お釈迦さんのように、神様の本質をあらわすことができるようになると、自ずと、普通の業想念まみれの(?)普通の人とは異なる、各種の神秘的な力が備わってくることになるんですよ。
前に六神通について書きましたが、あの中でも漏尽通(ろじんつう)が、特にそうです。
これが、神通力のいわばまとめ完成力(?)みたいな感じです。
中には、悟ることができず、霊性が極端に高い訳でもないのに、霊感や透視能力がある場合があります(過去世の因縁や家系で霊感があったり、幽界(肉体人間の想いの世界)の迷った生物に憑(つ)かれて霊感があったりする場合)が、それとは根本的に異なります。
お釈迦さんの超能力に対する態度を見れば、普通の唯物論者にないような、特別な霊感や超能力などがあっても、決して軽はずみには使ってはならないことがわかります。
人の指導に当たる場合、その人の霊的な成長に必要となる場合以外は、決して使ってはならない。
それも、公に、むやみやたらにひけらかすものではない。
超能力者は絶対に人格的にも優れていなければならない。
お釈迦さんの態度から読み取れるのは、このような姿勢です(前にいくつか書いているので詳細は略します)。
世の中のすべての人の霊性が、開発され尽くされるまでは、お前の運命はこれこれだとか、ましてや、悪い予見や予言は絶対にするべきではない、と考えられるのです。
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・絢爛~けんらん~①きらびやかで美しいさま。
(用例)豪華絢爛な衣装。
②詩文などの字句が華やかで美しいさま。
(用例)絢爛たる文章。
ここでは、①の意。
・羨望~せんぼう~うらやましく思うこと。うらやましがる思い。
(用例)羨望の的となる。
・当座~とうざ~①その場。その席。
②さしあたり。当分。一時。
(用例)当座のやりくりには事欠きません。
③当座預金の略。
ここでは、②の意。
・容貌~ようぼう~顔かたち。みめかたち。
(用例)容貌魁偉。
・素封家~そほうか~代々続いた家柄で、財産家。金持ち。
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追記: 2022/01/14 02:30
〜訂正内容〜
本文と注釈を加筆・訂正しました。