前回 ( 149_原仏7ー1 - おぶなより ) の続きです。
で、中村さんは、中道を尊ぶ立場として以下のものをあげている(端段落分けなどの改変あり)。(*1)
カッチャーヤナよ。
この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。
すなわち有と無である。
もしも人が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。
また人が正しい智慧をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。
あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。
あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないで、中道によって法を説くのである。
「サンユッタ・ニカーヤ」第二巻一七ページ。
いろいろ書いてありますが、要は、六師の両極端な二つの行き方に帰着させていますね。
苦行をきわめる行き方と快楽や身勝手を放埒三昧させる行き方に。
そして、この両極端を超えたところに、人間の本当に正しい道がある、としています。
その中道は、その趣意は、足して二で割るという意味ではなくて、これを目指すところに実践の究極的な原理があると考えられたとしています。(*2)
そして、それは現実をよく見つめることにもなるとされ、イエスかノーかと簡単に割りきれない事柄が現実世界にはたくさんあるので、一方から見ればこう言えて、他方から見れば、またこう言えて、その全体を見て・正しい判断を下すことが必要になる、と。
私には、申し訳ありませんが、何を言っているか、漫然としていてよくわかりません。
わかったようなわからないような、訳のわからない感じです。
なので・・・。
こうした書き方をするのならば、神様の分けられたお命=分霊(わけみたま)を本体とする私達が、自然に(よほど悪く深く重い因縁をもつ人は除いて)そなえているところの、真なるもの、善なるもの、美なるものを求める性向、いわば、神性のおもむくままに、自然に、老子の言う道のままに行くとしたほうが、わかりやすい気がするんです、個人的には。
で、これは全体を見きわめる仏教の立場とされている箇所にも言えて、いろいろ述べた後に、中道はこだわりのない立場、こだわりのない人になれ、としていて、これも並大抵ではないから、日々反省して精進していくように書かれていますが、これもあまりはっきりしません。
生命の不思議にはじまって、自然の不思議、地球の不思議、太陽系の不思議、宇宙の不思議の前では、私達の唯物論の知識はまだまだ、とるに足らない、お話にならないのだから、謙虚に足元を見つめ直して、各人が置かれた立場で日々反省しつつ、神性にかなった生き方に努めるとした方が、ずっとわかりやすい気がするんです、個人的には。
中村さんは、私達が至らない者であること、謙虚であるべき者であることを、以下を引いて示しておられます。
自分が愚か者でありながら賢者だと思う者、これこそ愚者なのである。
自分が愚者であると知っている者は賢者なのである。
「ダンマパダ」六三
これは、多少、知識に自信が出てきても、決して思い上がるな、つねに謙虚であれ、神様の神業の前では、私達肉体人間は、とるに足らないのだから、と読み替えることができると思います。
以上で、序章 原始仏典へのいとぐち、を終わりにしたいと思います。
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(*1)尊ぶ~たっとぶ~とうとぶ。尊いものとしてあがめる。敬(うやま)う。
(*2)趣意~しゅい~①物事を行うときの狙い・目的。また、理由。
②言おうとすることの意味。考え。趣旨。
ここでは、①の意。
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追記: 2024/04/09 04:33
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。