おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

149_原仏7ー1

六 原始仏典の歴史的意義

中村さんは、仏教があらわれた意義を、因習を超えて、の一言でまとめておられます。

人間のあるべき生き方や道筋は、バラモンのような祭りの形式ではない、苦行でもない、世襲といった血筋でもない、沐浴でもない、形而上学のような理屈ではない、ブルドーザーのように一方的な理論で丸め込む片寄った考え方ではない(中道のことです)、いわば、あらゆるこだわりを解き放った、素直な人間として自然にわいてくる真善美の心、神性に身を任せて、日々のあらゆることにあたり、精進なさい、と言っているように感じます。(*1)

そうした、既存のとらわれから離れた生き方を模索することを、因習を超えて、と表現されているように感じます。

中村さんは、祭礼と苦行に関して、いきなり頭ごなしに、あなたがたのやっていることはダメだ、と否定する仕方はしない、これが仏教の一つの態度だとされています。

お釈迦さんは、因習にとらわれている人達を、思いやりをもって同情して、その上で高い境地へ導いていくのが彼の態度で、これがその後の仏教にみられると。

これはおそらく、こう読み変えることができると考えます。

お釈迦さんは過去世からの因縁因果を変えることは、基本的にできないことをよく知っていた。

だから、高圧的な態度や教条主義的なやり方は、基本的に無効であるのみならず、さらなる、真善美に悖る業想念を増やすだけになりがちなこともよくわかっていた。

そうした場合に、祈りや呪術的なやり方ではなく、相手を導いていくにはどうしたらいいか。

呪術的なやり方も、輪廻転生を通した因縁因果には、対症療法、結局は一時しのぎにしかならないことも知っていた。

それを克服しながら、人々を導くにはどうすればよいか。

それは、自らの絶え間ない精進と可能な限り礼を尽くした相手の感化しかない。

だから、相手のふところに入って理解を示して、丁寧に対処していったのではないでしょうか。

形而上学に振り回され、現実の生活や生活態度のあり方がおろそかになりがちな人々には、毒矢のたとえをもって、対処した。

そしてお釈迦さんは、人生は苦である、すなわち、思い通りにならない、と断定した。

これは、過去世からの因縁因果によって定まってしまっている、あらゆる境遇や環境要因は、基本的には変えることができないことと同じように見えます。

本来ならば、神霊の身体として、自由自在であったはずのものが、過去世からある程度規定された因縁因果で定まる肉体に閉じ込められる形で、いわば、限定された形になっている。

しかも、各人各様で、千差万別に因縁因果は異なるから、それをも含めて、本人の気根や環境要因もすべて含めて、柔軟に対応していく。

それが、待機説法の形になっていると考えられます。

祭礼に関しては、以下のものがあります(段落分分けなどの改変あり)。

バラモンよ、木片を焼いて清浄になることができると思ってはならない。
なぜなら、これは外面的な事柄だからである。
外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによって清浄とはならないと賢者たちは説く。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす。
永遠の火によってつねに心が静まっている。われは尊敬さるべき行者であって、清浄をおこなう者である。
よく制御された自己は人間の光である。

「サンユッタニカーヤ」第 1 巻 169 ページ

沐浴に関しては以下のものがあります。

バラモンよ、法の海は戒めの渡し場をもち、汚れなく澄み、高貴にしてよき人々に賞賛される。
そこにこそじつに聖者らは来たりて沐浴し、身体の汚れを清め、彼岸に渡る。

「サンユッタニカーヤ」第 1 巻 169 ー 183 ページ

理屈(形而上学)に関しては以下のものがあります。

「世界は常住(永遠)なものであるという見解があるとき、人は清らかな行いを実修するであろう」というのは正しくない。
また、「世界は常住ならざるものであるという見解があるとき、これは清らかな行いを実修するであろう」というのも正しくない。
世界は常住なものであるという見解があっても、また世界は常住ならざるものである見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、苦痛、悩み、悶えがある。われはいま目のあたり(現実に)これらを制圧することを説くのである。

「マッジマ・ニカーヤ」第 1 巻 429 ー 431 ページ。なお、「ディーガ・ニカーヤ」第 1 巻 187 ページ。

もうひとつは、以下のものがあります。

毒矢のたとえです。

中村さんは、解決できない問題を論議するよりも、どのように生きるべきかを理解して実践する方が先であることについて、経典のひとつの譬喩を引いています。(*2)

ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。
彼の親友、親族などは、彼のために医者を迎えにやるであろう。
しかし、矢にあたったその当人が「私を射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるか、を知らないあいだは、この矢を抜き取ってはならない」と語ったとする。
それではこの人は、こういうことを知りえないから、やがて死んでしまうであろう。
それと同様に、もしもある人が「尊師が私のために、世界は常住であるか、常住ならざるものであるかなどということについて、いずれか一方に断定して説いてくれないあいだは、私は尊師のもとで清らかな行いを実修しないであろう」と語ったとしよう。
しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は毒がまわって死んでしまうであろう。(*3)

「マッジマ・ニカーヤ」第 1 巻 429 ー 431 ページ。

で、どうしたらいいのか、その続きとして以下のものがあげられています。

しからば、私は何を断定して説いたのであるか。
「これは苦しみである」
「これは苦しみの起こる原因である」
「これは苦しみの消滅である」
「これは苦しみの消滅に導く道である」
というこ私は断定して説いたのである。
何ゆえに私はこのことを断定して説いたのであるか。
これは目的にかない、
清らかな修行の基礎となり、
世俗的なものを厭い離れること、
欲情から離れること、
煩悩を制し滅すこと、
心の平安、
すぐれた英知、
正しい覚り、
安らぎのためになるものである。
それゆえに私はこれを断定して説いたのである。

「マッジマ・ニカーヤ」第 1 巻 429 ー 431 ページ。

中村さんは、この断定するの明言から、待機説法を説き、原始仏典では対話の多いことを説いていますが、引用も少なく、これだけでは、どうもピンときません。

なので、勝手ながら因縁因果を使って書いてみました。

なお、都合により、中道以降は次回に譲ります。

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(*1)・沐浴~もくよく~髪や体を洗い清めること。

気候が暑く、インドの人々の血のようにともにある沐浴は、習慣として連綿として続いてきているようです。

ジャイナ教で無意味だとされても、結局はなくならずに残っている、もう身についてしまっている習慣だと。

(*2)また、難しい字をお使いになって・・・。

・譬は、形成で六書の一つ。

・六書~りくしょ~漢字の構成・使用に関する六つの種別。象形・指事・会意・形成・転注・仮借(かしゃ)。

・形成~漢字の六書の一つ。意味を表す文字と音を表す文字の二つを組み合わせて、新しい文字を作る方法。また、その文字。

たとえば、銅は金が金属の意、同がドウの音を表すなど。

・譬は、言と、音を表す辟(ヒ)(ならべる意→並(ヘイ) )とで、似たことをならべてたとえる意を表す。

・譬喩~ひゆ~①たとえること。
②特徴のはっきりしたほかの似たものを引いてきて、ある物事をわかりやすく説明する表現法。直喩・隠喩などがある。

漢和辞典~たとえ。また、たとえること。比喩。

(*3)尊師~国語辞典数冊と漢和辞典には出ていません。

ネットでは、尊師とは師を敬った言い方である。つまり敬われるに値する人である。

サンスクリット語「guru」の訳語。
となっています。

これはあくまでも個人的な憶測ですが。

これはおそらく旧来の辞書には、出ていたものと思われます。

ただ、オウム真理教事件のために、以後、用いられるのを一切避けるべきとして、抹消したと考えられます。

あんな風に使われるくらいなら、無くしてしまった方がいい、と。

・しからば~そうであるなら。それなら。

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①追記: 2020/10/30 18:41
②追記: 2024/04/09 04:22
③追記: 2024/04/09 04:25
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。