三 梵天の懇請 その2 です。
前回 ( 162_原仏9ー3 - おぶなより ) に関しての雑感みたいな内容です。
仏教が大好きで、すごく素直で生真面目な人は、お読みになった場合に、ん?と引っ掛かるところがあったかもしれません。
不愉快まではいかなくとも、何を言ってるんだコイツは?と思われた箇所があったはずです。
別に、おちょくる訳ではないのですが、やや、懐疑的な雰囲気を漂わして書いていたことにお気づきになられた方がいるかもしれません。
それについてです。
原典を詳しく見れないので、何とも言えないところはあるのですが、梵天が、悟りを開いた直後のお釈迦さんの気持ちに気づく点です。
あの話は、当時、六師の輩出のように、世相が混乱してきていた状況に、お釈迦さんの、殊に、悟りを開いたお釈迦さんの出現が重なった訳ですね。
ちょうど、救世主よろしく、登場してきた。
前回ちょっと触れたように、神様は絶大な力を持っていて、万能であり、何でもできると考えられるのが普通でしょう。
しかし、肉体人間の世界を、大元の神界のように高めていくには、あくまでも、神様が直接手を下すのではなく、側面や後方から支援して支える形をとってやっていくしかない、もしくは、そうした形をあえてとっている、とすると。
もしも、このように仮定すれば、神様とされる存在、殊に、高位とされる最高神の梵天ならば、常に地上の肉体界(この世、現界のことです)に気を配り、堕落しがちな肉体人間を、導き、救い、教化して、世を救っていく存在には、大いに注目することになりますね。(*1)
従って、これにふさわしい人物が輪廻転生上に乗り、この世に出てくることを心待にすることにもなるでしょう。
前に、アシタ仙人のところで書いたように、お釈迦さんの誕生を知った神々が、子どものように無邪気に?喜んでいる話にあったように。
あるいは、神様ご自身が時宜を見て、この世に聖者を降ろされるのかもしれませんが。(*2)
そして、当然、この世で悟りを得ようと精進している修行者には、特に期待されているお釈迦さんのような人には、普段から注目しているのも、ごく自然な成り行きになりますね。
いつ、悟りを開かれるのだろうか、と。
当然、その心境や動向にも、注目しているはずですよね。
これならばわかるように思えるんです。
ここまで、書いてあれば。
梵天がお釈迦さんに敬礼して、消えたくだりまで含めて。
ただ、あの中村さんの本に書かれている内容だけでは、お釈迦さんの教化の断念とそれを梵天が認識したことが、うまくつながりすぎている、タイミングがよすぎる、話かできすぎている、と思えてしまうんですよ。
だいぶ前に書きましたが、お釈迦さんの誕生にしても、イエスの誕生にしても、私はああいうおとぎ話のような事実はない、と思っています( 065_お断り - おぶなより )。
詳しくは書きませんが、今現在のみんなと同じような生まれ方(時代からすると帝王切開はなかったと思います)をしていると考えています。
宗教の教祖に関しては、どうしても信徒が崇めるために、勇み足を起こしがちになるところがあると思います。(*3)
ですので、唐突に見えるつながり、うまくできているつながりを見ると、一応、疑いを抱いてしまうんですよ。
戦勝者や、隊商や、負債なき人のたとえも、わかりやすすぎる代わりに、何かあまりにも卑近すぎて、当時の人が上から目線で、説教したり、服従させるたとえに、いかにも使いそうだなと思えて、あらぬ邪推をしてしまったもので。(*4)
あくまでも、邪推ですけど。
だから、その点に関して、もう少し、これに近い説明が欲しかったと思いました。
あくまでも、雑感というか、感想ですが。
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(*1)・教化~きょうか~人をよいほうへ教え導くこと。
(用例)民衆を教化する。
(参考)仏教では、きょうげという。
(*2)・時宜~じぎ~時期が適当であること。ちょうどよいころあい。
(*3)・崇める~あがめる~尊(たっと)び敬(うやま)う。
(*4)・卑近~ひきん~身近で理解しやすいこと。また、そのさま。
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①追記: 2024/04/13 06:23
②追記: 2024/04/13 06:28
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。