おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

195_原仏12ー8

前回 ( 194_原仏12ー7 - おぶなより ) の続きです。

すみません。毒矢のたとえ、のことを書く(例によって、あまり大した内容は書けないですが)前に、めいめいが勝手な考えを主張するのは、肉体人間の自己保存の本能に帰着するとしましたが、これについて補足します。

現代なら、心理学に造詣が深い人もたくさんいるんでしょうね。

当然、強い自説主張を、マズローの欲求 5 段階説の承認欲求になぞらえて考える場合もあるかと思います。

マズローの欲求5段階説は、

自己実現欲求
 ↑
承認欲求( 40 %以上で自己実現欲求へ向かえる)
 ↑
愛情欲求( 50 %以上で自己実現欲求へ向かえる)
 ↑
安全欲求
 ↑
生理的欲求

このように、下部の基本的な欲求が満たされると、上部の欲求に向かうといったものです。

しかし、人間の欲求をこんなにスパッとわけて分析できるものなんですかね?

しかも、愛情欲求は 50 %以上、承認欲求は 40 %以上で、自己実現欲求に向かえるなんて、こんな数値化が普遍化できるものなんですかね?

これも前に本で見た話で、うろ覚えにしか書けませんが、こんな単純じゃないと思いますよ。

あくまでも、傾向、おおよその傾向なのではないですかね?

例えば。

その話ですが、ある偉人とされる人を、ものすごい野心家(日本人です)だとしていた。

その野心家は、他人に認められたい、という凄まじい渇き、渇望の強い人だとしていた。

だから、自分の名を上げるためには、名誉を獲得するためには、どんな手段をも厭(いと)わない、場合によっては自らの命すら惜しまない人物だと、推定していた。

この場合で考えるなら、欲求で言えば、承認欲求が安全欲求やその下の生理的欲求(当然、生きたいもふくまれますね)を飛び越して、第一義になっている訳です。

その野心家は強い名誉欲=承認欲求の前では、他の欲求は吹き飛んでしまうほど、名誉を重視している人だった、となる訳です。

私の根本原因とした、自己保存の本能まで突き抜けても、死後の名誉が欲しい。

それを書いていた人の考えでは、その偉人は自らの命と引き換えに名誉を残したと解釈していた。

こんな場合があり得るということですね。

普通は、権威や、話のうまいこと、強大ななにがしかの後ろ楯を背景に、自説を展開しても、命までは賭けることはないでしょうからね。

なので。

マズローの欲求 5 段階説には、例外がたくさんありそうだと思います。

で。

中村さんのいう、「毒矢のたとえ」は、パーリ語聖典の三蔵である、律蔵、経蔵、論蔵の中の経蔵、その中の 5 つの集成書の 2 番目の中部(マッジマ・ニカーヤ) (中阿含経)の、第 一 巻 四二九 ー 四三一 ページ)にあります。

また、懐疑的になって、うるさいな、と思われてしまうかもしれませんが。

毒矢のたとえは、一見、もっともらしく思えますよね。

しかし、問題をそらしているのではないですか?

はぐらかしている、と。

答える時間がなければ仕方ありませんね。

修行指導や説法の他に、救いを求める人が次から次へとやって来て、息つく暇もなかったら、仕方ないでしょう。

宗教家には、一切、無駄な時間は許されないのだ、と。

しかし、ほんのわずかでも時間があれば、わかる範囲で答えてもよかったのではないですか?

なぜ、答えなかったのか?

時間がない、無駄だ、他にもっと片付けるべき危急存亡の秋(とき) (?)に何をやってるんだ、と一喝されるということなんでしょうか。

答えればよかったのに、と思います。

重要度がないから、時間がないから省くんだ、以外の理由があるとすれば、何になるんでしょうか?

筆舌(ひつぜつ)に尽くし難(がた)い、という表現がありますよね。

文章や言葉では表現のしようがない、という意味合いです。

お釈迦さんは、例えば、宇宙は有限か無限か、を彼なりに理解していれば、ごく簡潔に答えて、質問者に教えてやればよかったのではないですか。

この話はこれこれこうである、ただし、筆舌に尽くし難いので、現段階ではこの程度にしか教えることはできない、と。

あるいは、その時代の科学技術の程度の水準からして、この道具だてでは、説明・実証はできない、と断りを入れて。

あるいは、空になる、悟りを得ることを仮に質疑とするなら、これは本人が自ら感得・実感しなければ、わからない面があるので、説明しても限界があるので、答えない、などといった対応が考えられます。

ただ、このような形だとしても、次から次へと、質疑がやまなくなってしまっては困るので、やはり、受け付けないことにはなるのでしょうか。

ただ、身体(肉体のことと思われる)と霊魂は同一か否か、については、説明しておいてもよかったのではないですか。

中村さんの本でも、露の団姫(つゆのまるこ)さんの本でも、ひろさちやさんの本でも、神々や悪魔が当たり前のように出てきますからね。

やはり、霊的なこれらの存在が、経典に頻出している以上、これにかかわらせる意味でも、簡潔に教えておくのもアリだったのではないですかね。

あと、これはついでになりますが。

( 170_原仏10ー2 - おぶなより ) で、修行者が生き物の殺生を避けるために、虫さえも踏み潰して殺さないために、下を向いて歩き、裸足(はだし)で歩く話をご紹介しました。

これにかかわる話がひろさんの本に出ていたので、ご紹介します。

弾琴(だんきん)の喩(たと)え、です。

勝手ながら、また書き換えてまとめさせて頂きます。

お釈迦さんの弟子にシュローナ(パーリ語でソーナ)という、良家のお坊ちゃんがいました。

彼は、出家するまでは、徒歩はせず、貴人の乗る輦(れん)という車で移動していた。暮らし向きもよく、大切に育てられた人だったのだろう。

当然、足の裏も弱かったのだろう。彼は真面目に修行に打ち込んだのだが、托鉢のために自らの足で歩くことで足の裏が破れて出血して、かなりつらいこともあったためか、悟りをまったく得られず、還俗することを決意する。

そこで、お釈迦さんに相談した時に、こう言われたとされている(以下、段落分けなどの改変あり)。

「シュローナよ、そなたは家にあったとき、琴を弾いたであろう。
琴の絃(いと)は緩いといい音はでないが、あまりにきつく締めすぎてもいい音が出ないばかりか、切れてしまう。
いま、そなたは、絃を締めすぎているのだよ。
もっとゆったりと修行を続けなさい」

これは、中道の教えで、この助言(アドバイス)によって、後にシュローナは悟りを得たとされている。

これが、弾琴の喩え、と呼ばれる。

そして、釈迦はシュローナに履(は)き物を履くことを許す。しかし、シュローナは自分だけがこれを許されるのは心苦しいので、全員にこれを許して欲しいと釈迦に願い出て、許しを得た。この話が律蔵にある。

ひろさんは、ここから、比丘(びく。出家して一定の戒を受けた男子。僧)は(それ以前は)裸足(はだし)だったと推定している。

中村さんの本にあったように、やっぱり、裸足だったんですね。

~~~~~

・危急~ききゅう~危険や災難が目前に迫っていること。

・危急存亡~ききゅうそんぼう~危機が迫って、生き残るか滅びるかの重大なせとぎわ。生きるか死ぬかのさかい。
(用例)危急存亡の秋(とき)

・還俗~げんぞく~一度出家した僧や尼が、もとの世俗の人に戻ること。

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①追記: 2020/12/06 09:46
②追記: 2020/12/07 06:33
③追記: 2024/04/14 09:17
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

(補足) ( ② について)
本文を元々のひろさんの本に忠実に、少し書き足しました。

托鉢に歩くために、足の裏の皮膚が切れて血が出る意味を明確にすることと、ひろさんがお釈迦さんが履き物をはいてよいと許可を与えるまでは、裸足だったと推定している(ひろさんは裏読み、逆読みしている)ことです。

この推定に関しては、中村さんの本では、このあとも、お釈迦さんや周りのお弟子さん達が引き続き裸足だったのかどうかが読み取れなかったので、あえて省いていました。

お釈迦さんの最後の旅路の時が、裸足だったのか、否か、私の読み取り能力では、特定できなかったためです。

私が ( 170_原仏10ー2 - おぶなより ) を書いた時には、中村さんの文面から、当然裸足だと読み取りましたが、このひろさんの本を読んだあとに、お釈迦さんが自らを含めてどの範囲まで、履き物を履くことを許可して、決めたのかがわからず(シュローナとその周辺の弟子達までなのか、もっと範囲を広げたのかがわからず)、整合性がどうなのか、検討できなかったためです。

そのため、それ以前は、この内容を省いていました。

ただ、当時の自力で悟りを得る修行が、いかに過酷であるか、の一端を垣間見ることができると思います。

それからすると、現代の私達は、自然破壊にしろ、食料調達にしろ、あらゆるものを犠牲にしながら生きていると改めて思わされます。