おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

201_原仏12ー14

前回 ( 200_原仏12ー13 - おぶなより ) の続きです。

トーデイヤさんとピンギヤさんです。

学生トーデイヤさんの質問

トーデイヤさんが尋ねた、
「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、 
ー 彼はどのような解脱を求めたらよろしいのですか?」

師(ブッダ)は答えた。
「トーデイヤよ。
諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、
ー 彼には解脱は存在しない。」

「彼は願いのない人なのでしょうか?
あるいは何かを希望しているのでしょうか?
彼は智慧があるのでしょうか?
あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?
シャカ族の方よ。
彼が聖者であることを私(わたくし)が知り得るように、そのことを私に説明して下さい。
あまねく見る方よ。」

(師いわく、)
「彼は願いのない人である。
彼は何ものをも希望していない。
彼は智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。
トーデイヤよ。
聖者はこのような人であると知れ。
彼は何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。」

(一〇八八 ー 一〇九一)

この妄執がなくなったというのが究極の境地です。

今生きている我々としては、欲望や執著がなくなるというのは、できないことなのではとおもわれますが、当時の修行者においては、すべて捨て去るという境地に入ると、もう何もとらわれなくなると思っていたようです。

そして、自己を律して支配している人は、欲望を乗り超えている云々書かれている。

しかし。

これは違うと思う。

前回にもかかわるが、自力(聖道門)の場合、厳しい戒律を守り、修行に打ち込まなくては、到底、こんな境地に至ることは不可能だからだ。

言葉では、ごく簡単に、自己を律して支配する、といえるが、これは並大抵なことではなし得ないからです。

そうした境地に達した人は、自慢したいがための知識欲や、自己満足の知識欲、つまり、悟りと涅槃の境地に不必要な知識欲は起こらないだろうと考えられます。

だから、知識を(無駄に)得ようとはしないし、五感にまつわる余分なものを得ようとはしないし、執着も起こさないことになるのでしょう。

次は、ピンギヤさんです。

学生ピンギヤの質問

ピンギヤさんが尋ねた、
「私(わたくし)は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。
眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。
私が迷ったままで途中で死ぬことのないようにして下さい。
ー どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、その理(ことわり)を説いて下さい。
それを私は知りたいのです。」

師(ブッダ)は答えた。
「ピンギヤよ。
物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。
ピンギヤよ。
それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態に戻らないようにせよ。」

(一一二〇 ー 一一二一)

これだけでは、ピンギヤさんは理解できず、再び尋ねました。

「四方と四維(しい)と上と下と、これらの十万の世界において、あにたに観られず聞かれず考えられずまた識(し)られない何ものもありません。
どうか理法を説いて下さい。
それを私は知りたいのです。
ー この世において生と老衰とを捨て去ることを。」

師は答えた。
「ピンギヤよ。
人々は妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、
それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく励み、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」

四方は、東西南北の中間の方角、つまり東南、西南、西北、東北をいいます。
「妄執」を元の言葉では「タンハー」といい、その意味は人間の渇(かつ。水が飲みたくてたまらない気持ち)に似た衝動的なものが内にあり、それを妄執と呼ぶ訳ですが、それを知って乗り超える。つまり知ることが乗り超えることになる訳です。

形あるものとしての人間の肉体の老いること、死ぬこと、これは避けることはできません。しかし、その理を知って、怠ることなく励み、妄執を捨てることが生きる道であり、老いを克服する道であると釈尊(お釈迦さん)は言うのです。

これは。

当時の厳しい修行生活で、つまり、自力で悟りを得るように励め、ということでしょうね。

そうすれば、肉体人間の本体は神様の分霊(仏教なら仏性と言いますね)であることを悟り、肉体はこの世で時を経て消えてゆく姿であり、誰しもが、肉体の死に向かって歩まざるを得ないことを悟りなさい、ということでしょうね。

ただし、肉体人間として、この世を生きていくための自己保存の本能が付与されているので、なかなか、この老いと衰え、そして、死の恐怖を克服するのは、大変なことですが、当時の厳しい自力修行と釈迦とその弟子達の指導力によって、乗り超えていったのでしょうね。

そして、もちろん、五感にまつわるすべてのものは、この世で時を経て消えてゆく姿で、妄執、つまり、これに執着することは、苦しみにしかならないこともきちんと悟りなさい、と。

いくら、無くならないでくれ、消えないでくれ、と願っても、神様のみ心と神様の生命以外は、否応なしに、万物流転していくのだから、執着をやめなければ、苦しむことにしかなりませんよ、ということでしょうね。

こうしたことを、たゆみない自力修行をひたすら積み重ねれば、あなた(ピンギヤさん)の気根(=あまたの過去世からの積み重ねの貯金があること)なら感得できるのだから修行に励みなさい、と。

例のブッダなら一刧の寿命云々の話は置いておくにしても、どれほど呼吸法やヨガなどを極め、仙人のように暮らしても、せいぜい 120 才くらいまでが、寿命の限度ではないでしょうか。

長生きすることだけを、たたそれだけを目標にするのではなくて、やはり、悟ること、そして、お釈迦さんのように人々に尽くすことを、万分の一、いや、億分の一でも行うことができれば、幸せなのではないでしょうか。

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・四維~字引載っておらず。

・気根~きこん~①物事をやりとげる気力。根気。
②(仏教語)仏の教えにしたがい修行しうる衆生の能力・資質。
ここでは、②の意。

衆生~しゅじょう~仏教語~一切の生き物。特に人間。

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①追記: 2020/12/10 15:45
②追記: 2024/04/15 02:17
③追記: 2024/04/15 02:20
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。