おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

221_原仏13ー10

前回 ( 220_原仏13ー9 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば

になります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 真理を喜ぶ人 ー

第 六 章 では、「真理を喜ぶ人」に関連した詩が述べられており、法句経では「明哲品(みょうてつほん)」となっています。

真理を喜ぶ人は、
心清らかに澄んで、
安からに臥(ふ)す。
聖者の説きたもうた真理を
賢者は常に楽しむ

(七九)

(A) 賢者というのは人生の真理を体得し見通した人という意味です。

賢く立ち回る人という意味ではありません。

(B) 聖者(せいじゃ)を字引で見ると、
聖人。偉大な信仰者。特にキリスト教で殉教者や偉大な信徒。聖徒。

聖人(せいじん)は、
①人徳が非常にすぐれた理想的な人物。聖者。ひじり。
(用例)聖人君子。
②(濁酒を賢人というのに対して)清酒の別称。
とあります。

一方、賢者は、道理に通じた賢い人。賢人。とあります。
賢人は、
①賢い人。賢者。聖人に次いで徳のある人。
②(清酒を聖人というのに対して)にごり酒の別称。
とあります。

経典も聖者の説いた道を賢者は楽しむとあるので、聖者は賢者よりも格が上だと読み取れます。

聖者の説いた道は、清らかで安らかなのですから、よい宗教の教祖がこれにあたるでしょうね。

次です。

水道をつくる人は水をみちびき、
矢をつくる人は矢を矯(た)め、
大工は木材を矯め、
賢者は自己をととのえる。

(八〇)

(A) インドには灌漑(かんがい)用の水道があちこちに造られています。

時には地下水道を造った人もいるのですが、いずれにせよ農業には不可欠の設備です。

矢を作る人も、昔の叙情詩によく出てきます。大工は木材に手を加える。

そのように、本当の賢者は自己をととのえるのです。

(B) 矯(きょう)は、
①ためる。曲がったものをまっすぐに直す。正しくする。
(用例)矯正。矯風。
②つよい。激しい。
(用例)矯激。奇矯。
③いつわる。
(用例)矯詔。矯奪。
とあります。

賢者は、仕事をする人がごく当たり前に必要なものを整えるように、自分を律して整えている、という意味合いでしょうね。

次です。

一つの岩の塊りが
風に揺がないように、
賢者は非難と賞賛とに動じない。

(八一)

(A) 世の中で事をなせば、必ず色々な批評があります。

しかし非難されようが賞賛されようが、自分が確信を持って行っていれば、動じることはありません。

(B) 他力的な信仰の場合、かなりの信仰者ならば、
非難があれば、過去世の悪い因縁が消えてゆく姿で、これだけ浄まった、ありがとうございます、となり、
賞賛があれば、それは過去世の因縁の消えてゆく姿でも、そうでなくても、そのまま、素直に、ありがとうございますとなり、
非難でも、賞賛でも、双方ともに起きてくることの一切に感謝できる形になる。

浄土門妙好人(みょうこうにん)のような人達ならば、すべては阿弥陀如来様が、自分を仏の子供として救いとって下さるためのおはからいだ、ありがたい、となる。

経典からすると、賢者とは、この世で起きてくることのすべてを、(過去世の因縁の)消えてゆく姿と見れるようなかなりの人物ではあるが、感謝のことについて書いていないので、かなりの信仰者にまでは、いたっていないのかもしれない。

次です。

深い湖(みずうみ)が、
澄んで、清らかであるように、
賢者は真理を聞いて、
こころ清らかである。

(八二)

(A) インドには、本当にきれいな湖があります。

荒れ地がずっと続いているその奥に、ふっとオアシスの、実に清らかな水をたたえた湖に出会うことがあります。

そのように賢者の心は清らかである、というのです。

(B) そうなんでしょうね。業想念をかなり浄め去って減らしているような人は、穏やかなんでしょうね。

理想的には、明るく、穏やかで、思いやりが深く、愛に満ちて、峻厳さも備える、ということになるのでしょう。

次です。

(A) 続いて第七章では、真人(修行完成者)に関連して述べます。

人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。
他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

真理が正しく説かれたときに、
真理にしたがう人々は、
渡りがたい死の領域を超えて、
彼岸(かなたのきし)に至るであろう。

(八五 ー 八六)

(A) 彼岸とは、理想の境地、ニルヴァーナのことをいっています。

死の領域とは悪魔、すなわち煩悩の悪魔が支配する領域を指します。

死も悪魔もしばしば同じ意味に使われます。

(B) また、ケチつけ的になるかもしれないけれど。

死を悪魔というのは、肉体人間の死を忌み嫌うべきもの、と捉えていると見ることができます。

古(いにしえ)の時代には、死ぬことを往生(おうじょう)といって、あの世に生まれて行くともとっていたらしい。

悟りを得た、永遠の生命を感得したのならば、輪廻転生からの解脱をして、肉体人間の死を超越するわけだから、死ぬことをことさらに恐れる、悪魔のように見るのは、ちょっと理解しにくいんですけど・・・。

もちろん、肉体人間である以上は、自己保存の本能があるから、死を恐れるのは、抜きがたくあるはずですが、悟りを得た人は、かなりの程度、これを克服できていると考えられるんですけど・・・。

悪魔=迷いをもたらす煩悩、ならば何のひっかかりもないんですけれども。

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①追記: 2024/04/16 20:16
②追記: 2024/04/16 20:18
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。