222_原仏13ー11
前回 ( 221_原仏13ー10 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー とらわれない境地 ー
すでに(人生の)旅路を終え、
憂いをはなれ、
あらゆることがらにくつろいで、
あらゆる束縛の絆を逃れた人には、
悩みは存在しない。
こころをとどめている人々は努めはげむ。
かれらは住居を楽しまない。
白鳥が池を立ち去るように、
彼らはあの家、この家を捨てる。
(九〇 ー 九一)
(A) この意味は、当時の修行者は一所不在(一ヵ所にとどまらない。それはそこに執著が起こるため)で、遍歴の生活を送るのです。
すなわち四方をもってわが家としたのです。
奈良に唐招提寺というお寺がありますが、あの招提というのは四方の人という意味です。
本当の修行者は狭い区域の違いなどにとらわれずに、大地をもってわが家とし、どこへでも縁に順(したが)って赴(おもむ)いていく、というのです。
(B) 普通、人は、大体一ヵ所に定住して、安定した生活が営めてこそ、心のゆとりも生まれ、安心して生活できるような気がします。
しかし、修行者の場合には、この定住と安心感さえも、執着の原因になるからと、許されないんですね。
虫を踏みつぶして殺さないために、裸足でいることといい、本当に厳しい。
現代なら平穏の象徴と思われる家族を持つ(修行者はセックス禁止で、破れば破門。従って、妻帯も禁止)ことも、その家庭の平穏も、許されない。
あくまでも執着を断ち切るために、あるいは、一切、生じさせないために、あそこまで厳しくしなければならない。
やはり、肉体にまつわる五感とわが身にごく近しい者を最優先に大事にすることも、執着が生じる元であるから、断ち切る。
本当に厳しいです。
しかし、現代で実践するには、これはやはり無理があると思います。
神様がこれだけの多くの人間をこの世に遣(つか)わしている以上、この状況にあわせて、道を模索していくことが求められていると思います。
次です。
財を蓄えることなく、
食物についてその本性を知り、
その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、
かれらの行く路は知り難い。
ー 空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
(九二)
(A) 空飛ぶ鳥のごとくというのは、まことにすがすがしい心境ですね。
(B) 財産を持つと様々な欲望と対象となるものに執着を起こすので、蓄えない。
食物も最低限の体力を維持する程度の簡素なものにとどめて、過剰に摂取しない。
そうした修行者が、空あるいは無相の境地にあるならば、悟りを得ているので、神様(仏教ならみ仏)のみ心のままに動く。
誰にも彼にもよくして、しかも、調和を破らない。こうした、境地にある人の行いは、悟りをいまだ得ていない人や日常茶飯事をはじめとして、五感にまつわる各種の欲望に執着する俗世間の人々にはなかなかわからない。
こうした意味合いだと思います。
次です。
御者(ぎょしゃ)が
馬をよく馴らしたように、
おのが感官を静め、
高ぶりをすて、
汚れのなくなった人
ー このような境地にある人を
神々でさえも羨(うらや)む。
大地のように逆らうことなく、
門のしまりのように慎み深く、
(深い)湖は汚れた泥がないように
ー そのような境地にある人には、
もはや生死の世は絶たれている。
正しい智慧によって解脱して、
やすらいに帰した人
ー そのような人の心は静かである。
ことばも静かである。
行いも静かである。
(九四 ー 九六)
(A) 南アジアのお坊さんに会って話をすると、本当に「心は静かである。言葉も静かである。行いも静かである」という心境をじかに感じます。
(B) これは、残念ながら、個人的には実感したことがありません。
過去世や日頃の行いが悪いせいか、こうした人に巡り合えなかった。
もちろん、そこそこいい人や、かなりいい人にはたくさん会っているけれど、悟りを得た人には、会ったことがない。
妙好人(みょうこうにん)のような人にさえも、会ったことがありません。
なので、あくまでも類推しかできないのですが、かなりいい人は、やはり、ある程度の落ち着きがあり、静かなことが多い傾向があるようには、思います。
神々でさえも羨むというのは、肉体を持つという執着の塊、業想念の塊になりやすいきわめて厳しい条件下にありながら、悟りを得たということは、霊体なり神体なりの立場からしても、尊敬に値するということでしょう。
お釈迦さんが神々から、お釈迦様と礼拝されたように。
大地のように云々というのは、こうした悟りを得た人は、肉体の死を超越して、輪廻転生を解脱できたのですから、生死に迷うことはなく、とらわれることがなくなっているという意味だと思います。
ただ。
正しい智恵によって悟りを得る、にはちょっとひっかかります。
知識だけで、理解力だけで、業想念を浄め去ることはできない、と考えられるためです。
古(いにしえ)の修行者ならば、厳しい修行と生活態度の実践、つまり、自力によって業想念を浄めることができたのでしょうが、ただ、書物の理解や物事の見聞だけによる理解のみでは、業想念は浄め去ることはできないと考えられるからです。
悟りまであとほんの一歩と、よほどの過去世からの積み重ねがない限りは、智恵のみでない悟りを得るとは、考え難いのです。
次です。
何ものかを信ずることなく、
作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、
生死の絆を断ち、
(善悪をなすに)よしなく、
欲求を捨て去った人、
ー 彼こそ実に最上の人である。
(九七)
(A) 最初の何ものかを信ずることなくという意味は、既成の色々な宗教や哲学の偏見をいいます。
それを信じないで本当の意味の人間の生き方を求める、ということです。
(B) (当時の)既成の宗教や哲学では、悟りには到達できないと書いてあるように読めます。
何か、Ⅰ 釈尊の生涯 の 第 二 章 の 悪魔の誘惑 の 一 蛇の誘惑 のところに出ていた、諸々のブッダ=仏教以外の宗教の理想的な修行者、とされていたのと矛盾する気もしないでもないような・・・。
作られざるもの云々というのは、やはり、悟りは、知識の集積や、見聞の集積だけでは、悟りを得ることはできないといっているように読めます。
それ相応の、修行や生活態度を含めた、並々ならぬ実践がないと、悟りには到達できないものと暗示されているように思います。
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・憂い~うれい~①心配。不安。
(用例)後顧の憂いを残す。
②悲しみで心が晴れないこと。憂愁。
(用例)憂いを帯びた顔。
(参考)ふつう①は憂い②は愁いと書く。
ここでは、①の意。
・執著~しゅうじゃく~仏教語~深く思い込む。物事に強く心がひかれる。
・赴く~おもむく~①・・・の方向に向かって進む。向かって行く。
(用例)大阪に赴く。
②もとの状態が変化して、ある状態に向かう。
(用例)病気が快方に赴く。勢いの赴くところ。
(語源) 面(おも)に向くの意から。そむくの対。
・無相~むそう~仏教語~①姿・形のないこと。
②姿・形にとらわれないこと。執着を離れた境地。
ここでは、②の意。
・御者~ぎょしゃ~馬車に乗って馬をあやつる人。
・感官~かんかん~外界からの刺激を受ける器官と、これを神経系に伝え知覚させる器官。感覚器官。
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①追記: 2020/12/20 07:30
②追記: 2024/04/16 20:37
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。