おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

236_原仏14ー4

前回 ( 235_原仏14ー3 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
ー 生きる心がまえ からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 無一物の境地 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)さて、現実の世の中においては、生きている限りは色々の事柄に出会い、色々のものに会う訳ですが、それにどう対処したらよいかという一般的な原則が、次に出ています(第 Ⅰ 篇 第 四 章・第 四 節)。

或るとき尊師は、
サーヴァッティー市のジェーダ林、
孤独なる人々に食を給する
長者の園に住しておられた。

そのとき多くのサトゥッラパ群神たちは、
夜が更けてから、容色うるわしく、
ジェーダ林全体を照らして、
尊師のもとにおもむいた。
おもむいてから、
尊師に挨拶して、傍らに立った。
傍らに立った或る神は、尊師に向かって次の詩をとなえた。
ー 「人間のあいだにある諸々(もろもろ)の欲望の対象で常住なるものは存在しない。」

(A) 人間は色々と、あれが欲しい、これが欲しいと思いますが、永久に存在するものはない訳です。

(B) まず、大前提として、ここで書かれている人間とは、肉体人間のことですね。

ここでの人間は、神様の霊光の分かれた一筋一筋の光、神様の分霊(わけみたま)である、神様の分け命、霊なる人間のことを指しているのではない、と読み取れます。

その肉体人間、それも、悟りを得ていない、あまたの過去世からの真善美に悖る業想念をたくさん抱えた、五感にまつわる欲望にまみれた肉体人間だ、と推定できます。

その肉体人間の五感にまつわる欲望、例えば、食欲、性欲、財産欲は、真善美に悖る業想念ですから、(原則として)隔世を経て(現世なら来世以降)、この世に時を経て消えてゆく姿となって立ちあらわれてきます。

隔世を経れば、肉体人間の肉体それ自体も無くなるし、その欲望にもとづく想いも輪廻転生を通して何らかの行為の形をとり、消え去ってゆく。

それらの欲望の対象である食物、女性(あるいは男性)、財産も、当然に同時に消え去ってゆく。

そうして、すべて必ず消え去る。

だから、永遠のものはない、となるのでしょうね。

次です。

「この世には
諸々の美麗なるものが存在し、
ひとはそれに束縛されている。
それらに耽(ふけ)って怠けている人は、死の領域から戻ることもなく、
(輪廻して)もとへ戻ってくることが無い」と。

(A) つまり、死の領域の中にあって、それを超えるということがない、という意味です。

(B) これは、何を言っているのかわかりません。

こう言っては申し訳ありませんが、非常に不親切な書き方だと思います。

これまで、中村さんの本を読んできた限りでは、神様のとらえ方が非常に曖昧であり、神々とされる存在や霊魂に関してもはっきりと規定されてはいません。

しかも、霊魂をはっきりと認めないのに、輪廻転生は当然にあるかのような書き方や内容になっています。

生まれ変わり、死に変わりをする、生き通しの命である霊魂がなければ、輪廻転生は成り立たないはずです。

こうしたことを曖昧にしたまま、ただ死の領域と言っても、何のことかわからないのですよ。

なので。

私の独断と偏見になりますが、ある程度、意味を限定して、読みかえることにします。

仮に、美麗なるものを美女として、これに耽るのを、美女を性欲の対象として交わること、性交(セックス)とします。

そして、当時の概念ならば、人間としての正しいあり方、生き方のよりどころとなる永遠の法、理法を求めることなく、ただ、肉体にまつわる性欲の充足ばかりにうつつを抜かすこと、現代的に言えば、輪廻転生を通した永遠の神様の命を感得する、悟りを得る修行(努力)をせずに、性欲の充足ばかりにうつつを抜かすこと、霊性の開発をまったくしないこと、を怠けていることとします。

死の領域から戻ることがないのは、今一つはっきりしませんが、とりあえず以下のように考えます。

まずは、肉体を離れて、この世から去ったあとに、性欲などの業想念を浄められない、落とすことができない迷った霊魂になってしまい、性欲にまみれた霊魂ばかりが集まる低い想いの世界の幽界で、長いこと過ごす(=暮らす)はめになることです。

なので、本来ならば、何度も生まれ変わって、それまでの過去世で溜め込んでいた業想念を、この世の生活であがなうなり、信仰による修行をするなりで、浄めることで、本来の神様の分霊(わけみたま)、神様の子に近づいていくべきところを、輪廻転生を中断したままの形で長い長い年月を過ごすことになってしまうことです。

だから、輪廻転生を通した生まれ変わりがなかなかできない、肉体人間として、この世に戻ってくるのに、長い長い時間がかかり、極端な言い方をすれば、経典さんのような言い回しになる、と考えられます。

ただし、長い長い時間はかかっても、戻ってこれないことなないはずです。

神様は御自らの分け命には、それぞれに天命を授けているはずですから、そのまま、永遠に低い幽界で過ごすだけになることは、ないはずだからです。

次です。

「罪は欲望から生じ、
苦しみは欲望から生じる。
欲望を抑制することによって、
罪が制せられ、
欲望を抑制することによって、
苦しみが制せらる」と。

「世間における種々の美麗なるものが
欲望の対象なのではない。
(むしろ)欲望は人間の内にある、
思いと欲情である。
世間における種々の美麗なるものは、
そのままいつも存続している。
しかし思慮ある人々は、
それらに対する欲望を制してみちびくのである。」

(A) 思慮ある人はパーリ語の原文ではドゥヒーラという言葉が使われており、これは現在のインド(今から約33年前)では、自動車を気をつけて運転せよ、というような時の気をつけてという意味になります。

自動車を気をつけて運転しなければならないように、実際社会に対処していくには、常に気をつけていかなければならない、というのです。

(B) これも何だかはっきりしない書き方で、きわめて意味がとりにくいです。

古(いにしえ)の時代であるために、性に関してあからさまに書けなかったのかもしれませんが、あまりにもわかりにくすぎます。

なので、また、私の独断と偏見により、限定して考えます。

また、性欲の話になってしまいますが、欲情などという、いわば、扇動的な言葉を当てているからには、これがもっとも近い意味合いだと考えられるからです。

ます、罪を性交(セックス)とします。そして、欲望を男性の女性に対する(あるいは女性の男性に対する)性欲とします。

苦しみとは、性欲に執着して、これを充足したくても、性交の相手を求めても自らの思うような相手が得られない、あるいは、相手そのものが得られないこと、とします。

美女(美男)が欲望の対象ではない。

この書き方は変ですね。

美女(美男)はれっきとした欲望の対象です。

よほどの、それこそ、悟りを得た、解脱したような人でない限り、美しい異性に性欲を抱かない人など皆無なのではありませんか?

美しい異性を認識してしまったからには、解脱をした、悟りを得た人でない限り、性欲を絶無とすることは、不可能なはずです。

従って、性欲の対象ではあるけれども、性欲を制御することによって、罪(性交)や欲望(性欲)を何とかなだめ、抑えることができる、という意味に取れます。

現に経典さんにも、「欲望を制してみちびく」と書いてありますからね。

こう考えてこないと、経文の前後の辻褄が合わないはずだと思います。

次です。

「怒りを捨てよ。
慢心を除き去れ。
いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形態とにこだわらず、
無一物となった者は、
苦悩に追われることがない。」

(A) 何ものにもとらわれることがない境地を、無一物とよんでいます。

(B) 古の当時は、自力によるしか霊性の開発の方法がなかったからなのかもしれませんが、何々せよ、何々するな、といっても、過去世の業想念はそう簡単には抑えられないはずです。

当時のめちゃくちゃ厳しい自力修行なら、可能性が十分にあったのでしょうけど。

なお、国語辞典によると。

無一物~むいちもつ~①財産などを何も持っていないこと。むいちぶつ。
②一切の煩悩を離れた境地。

中村さんの文章からすると、②の意ですね。

次です。

「思念を捨てるのだ。
おごりにおもむくな。
この世で名称と形態に対する妄執を断って。
束縛を断ち、苦しみもなく、
願望もない人々、
ー この人を神々も人間も、
この世でもかの世でも
さがし求めたが、
跡を見出すことができなかった」と。

(A) その境地というのは、非常に優れていて清らかなもので、形で表現できない。だから、その跡を見出すことができなかった、といっているのです。

初期の仏教では、理由は判然としないのですが、仏像をつくるということをしませんでした。おそらく非常に優れた人というのは、形では現すことができないという、ここに表明されているような思想が支配していたのだと思います。

こういう人々が、敬礼さるべく、尊敬さるべきだと最後のところに出ています。

(B) この文章の前段に書かれていることは、肉体人間の五感にまつわる想いを捨てよということと、この世で物をはじめとするあらゆる名前のつけられるものへの執着を断て、ということですね。

神界、霊界、幽界、現界(この世)と神様の光が流れてくる中で、これを阻害して、汚してしまい、本来の神様の想いや形があらわれるのを邪魔している、肉体人間の五感にまつわる想いの欲望、真善美に悖る業想念を捨てなさい、ということですね。

そして、そうした欲望の元となる執着を起こすのをやめなさい、と。

これが、妄執を断つということですね。

途中ですが、長くなりましたので、ここで区切らせて頂きます。ご了承願います。

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追記: 2024/04/18 06:20
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。