おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

237_原仏14ー5

前回 ( 236_原仏14ー4 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ (2)
ー 生きる心がまえ からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 無一物の境地 ー の続きになります。

以下は、前回 ( 236_原仏14ー4 - おぶなより ) の最終の部分とかなり重複(ちょうふく)しますが、ご了承願います。

「思念を捨てるのだ。
おごりにおもむくな。
この世で名称と形態に対する
妄執を断って。
束縛を断ち、苦しみもなく、
願望もない人々、
ー この人を神々も人間も、
この世でもかの世でも
さがし求めたが、
跡を見出すことができなかった」と。

(A) その境地というのは、非常に優れていて清らかなもので、形で表現できない。だから、その跡を見出すことができなかった、といっているのです。

初期の仏教では、理由は判然としないのですが、仏像をつくるということをしませんでした。おそらく非常に優れた人というのは、形では現すことができないという、ここに表明されているような思想が支配していたのだと思います。

こういう人々が、敬礼さるべく、尊敬さるべきだと最後のところに出ています。

(B) 経典の文句の「思念を捨てるのだ云々」は、肉体人間の五感にまつわる想いを捨てよ、ということですね。

次の「この世で名称と形態に対する妄執を断って」とは、この世で物をはじめとするあらゆる名前のつけられるものへの執着を断て、ということですね。

束縛とは、この世の目に見えるもの、目に見えないものをはじめとする、あらゆるものへの執着のことですね。

この妄執と書かれている執着を断ち切ることができれば(悟りを得る、解脱しないと不可能ですが)、執着の苦しみからも解き放たれて、願望と書かれている肉体人間としての五感にまつわる各種の欲望もなくなることになります。

それこそが、悟りの境地である、ということですね。

ここで書かれている、この世は、現世、現界のことだとはわかるのですが、かの世はあの世、想いの世界、幽界のことですかね?

以前、かの世と出てきた時には、私としては無意識にそのように解釈して通過してしまいましたが。

中村さんは、前に、かの世が出てきた時にも、「何の解説もされませんでした」し、「今回も一言も触れられてはいません」。

唯物論者と唯心論者が入り交じっている今の世の中では、これでは書き方かおおざっぱ過ぎて、不親切です。

中村さんは、基本的に霊魂や神様を認めない(認めている・前提としている記述もたくさんある)のだから、せめて、かの世とは、肉体人間が亡くなったあとに行く、あの世のことだくらいは解説してほしかったところです。

私としては、かの世とは、いわゆる、あの世のこと、想いの世界の幽界のことだと解釈することにします。

ここで、神々と人間(前後の文脈・内容から推測して肉体人間のことを指していると思われる)は、現界も幽界も、行き来できる、と書いてあることになります。

神々とされる存在は、霊的な存在を暗黙の前提としていると読み取れますから、現界と幽界を行き来することは当然にできますが、人間(=肉体人間)の場合には、特別な霊的な能力があるか、または、悟りを得たような人でない限りは、現界と幽界の行き来はできないはずです。

従って、ここで書いてある人間、肉体人間は、特別な霊感を備えた人か、悟りを得た人ということになります。

文句ばかりになってすみませんが、もう、本当に、経典さんも中村さんも、圧倒的に説明不足なんですよ。

雑過ぎます。

おおざっぱ過ぎます。

私のような力不足の者には、本当に難解で、読みにくくて仕方がない。

そして、この原因のよってきたるところを突き詰めて考えると、霊的な理解のある人と、神様や霊魂を否定する唯物論者の両者にわたっての、共通する理解するための下地ができていないからだ、としか思えないんですよ。

霊的理解のある人と唯物論者の間で、とりあえずでも、霊魂や神様に対する大まかな規定というか、共通の認識(今風に言えばコンセンサスですか?)があれば、概念規定をおざなりにして、なあなあの形で話を進めることも減らせるはずだ、と考えられるからですよ。

だから。

お釈迦さんには、とりあえず、証明はできなくてもいいから、霊魂を無記などとしたりはせずに、神様とは何か、霊魂とは何か、を説明しておいてほしかったんですよ。

お釈迦さんが霊的な存在を「無記」としてしまうから、こうしたゴタゴタとした読み分けをする余地を残すことになったと考えざるを得ないからですよ。

これも、以前書いたように、神様のみ心ならば、仕方のないことなのかもしれませんが。

で、肉体人間の想いについてです。

神界→霊界→幽界→現界(この世)と神様の光が流れてくる中で、これを阻害して、汚してしまい、本来の神様の想いや形があらわれるのを邪魔している、肉体人間の五感にまつわる想いの欲望、真善美に悖る業想念を捨てなさい、ということですね。

神様の光がそのままこの世にまで素直に届けば、この世は、こんな苦しみもがき、争いに満ちているような苦界にはなっていないはずですからね。

だから、神様の光をこの世にまで素直に通し切るために、神様の世界をこの世に、この物質の地球世界にあらわすために、邪魔をしている肉体人間の五感にまつわる想い、あまたの過去世から溜まりに溜まっている、真善美に悖る業想念を浄める、消滅させるために、病気・争い・貧乏・苦労のあがないが起きてくるし、守護霊さんと守護神さんがその裁量の範囲内で、可能な限り浄めて下さっているという訳ですね。

次に。

「束縛を断ち、
苦しみもなく、
願望もない人々」、
これは、まあ、悟りを得た、解脱した人のことですね。

現界でも、幽界でも、探してもその跡を見つけることはできなかったとされていますが。

これまた、難解で、何のことを言っているのかよくわかりません。

幽界以上の霊界も通過して、天上界の神界にまで、昇られてしまったので、会うことができなかった、という意味でしょうか?

よくわかりませんが。

中村さんは、悟りの境地が清らかで、表現のしようがないから、その痕跡すら、一切見つけることができなかった、とお書きになっているように読み取れます。

ちなみに。

五井先生によると、ここまで一般的に取り上げられてきたような悟り、解脱は、まだまだ序の口で、空となって悟っても、空の空の、また空の、と神様の悟りの世界は際限なく奥深いものだそうです。

戻ります。

中村さんは、この悟りを得た者が、痕跡を残さないところから、初期の仏教が仏像をつくらなかった理由なのではないか、と推定されているように読み取れます。

そして、経典で悟りを得たような人は、敬われて、敬礼されてしかるべき、との部分を引用されています。

以下です。

尊者モーガラージャは次のように問うた、
「もしも神々も人間も、
この世でもかの世でもそのように解脱した人を見ることができなかったのであるならば、
人々のためになることを行う最上の人を称する人々は、称賛されるべきでありましょうか?」と。

尊師は答えた、
「モーガラージャよ。
ビクよ。
そのように解脱した人に敬礼する人々も、また称賛さるべきである。
かれらもまた理法を理解し、
疑惑を捨て、束縛を超えた者となったからである。」と。

(以上、第 一 巻 二二 ー 二三ページ)

(B) 中村さんは、この経典の文句(これもまた、まどろっこしくてわかりにくい内容です)をよりどころにして、敬礼、礼拝をするための、五感に感じるものしか認識できない、悟りを得ていない人にも、目に見える形で敬礼、礼拝できるようにする要請から、仏像がつくられるようになったのではないか、と推測されている、そう私達に暗示されているように読み取れます。

ここにある、ビクって何ですか?

何でカタカナなのですか?

誤植ですか?

比丘~びく~仏教語~出家して一定の戒を受けた男子。僧。(女子は比丘尼(びくに) )

のことでしょう?

何でカタカナなのですか?

もう本当に煩わしくてしょうがない。

こんな書き方ばかりされると。

経典さん自体の問題なのか、訳の問題なのかわかりませんが、理解力の乏しい者としては、本当に「紛らわしいことはやめてほしい」と切に願いますよ。

もっと、簡潔に、素直に、誰にでもわかりやすく、それでいて、神様のみ心に適(かな)った、内容の深い書き方をして頂けるように、切望致します。

なお、仏像の件ですが。

釈迦が亡くなったあとは、仏舎利を納めた仏塔が、信者の信仰の対象、よすがとなったようです。

はじめは、釈迦の姿を人物像として描くのではなくて、仏足石や法輪で、釈迦を偲(しの)ばせたようです。

その後、紀元前 1、2 世紀頃に、ガンダーラなどで仏像が作られはじめます。

なせ、釈迦の仏像、人物像がつくられるようになったのかについては、定説はないようです。

ですから、中村さんは、あのような仮説を考えていたのではないか、と読み取った次第です。

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仏舎利~ぶっしゃり~お釈迦さんの遺骨。仏骨。舎利。

・仏足石~ぶっそくせき~お釈迦さんの足跡の形を石面に刻んで、礼拝の対象としたもの。奈良の薬師寺のものが有名。

・法輪~ほうりん~仏教語~仏(=お釈迦さん)の教え。仏法。仏の教えが悪をくじき、それが他に伝わっていくのを、車輪が動くのにたとえた語。

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追記: 2024/04/18 06:53
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。