おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

259_原仏16ー5

前回 ( 258_原仏16ー4 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 の
第五章 ジャータカ物語 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
また、ここでも、本の小見出しに従って、見ていく形にしたいと思います。

二 ジャータカ物語

ー さまざまな物語 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)仏典の中には、太子がわが身を投げて、自分の体を割(さ)き、飢えた虎に与えた話( 金光明経 第 四 巻 捨身品(しゃしんぼん) )があります。

その太子こそがお釈迦さんの前世の姿だという物語ですが、これは日本でも法隆寺の玉虫厨子に出ています。

「貧者の一灯」という物語も色々な仏典に出ています。内容が少しずつ違いますが、その多く汲(く)まれている精神は同じです。貧者の一灯は、長者の万灯よりも尊いとされます。

他には、インドでは昔から、月の別名を兎(うさぎ)をいただくもので、懐兎(えと)と言います。

インド人は昔から月には兎がいると思っていたのです。日本でも昔から月で兎が餅(もち)をついているなどと言われています。

ジャータカによると、この兎こそが、菩薩の姿をとった仏(お釈迦さんのことでしょ。何で仏と書くんだよ。読者を惑わせるような紛らわしいことはやめて下さい)の前世であるというのです。

日蓮もジャータカに言及しています。

題目を離れて法華経の心を尋ぬるものは、
猿を離れて肝を尋ねしはかなき亀なり。山林を捨てて木の実を大海のほとりに求めし猿候なり。
はかなし、はかなし。
日蓮「曾谷入道殿御返事」

この中に、猿を離れて肝を尋ねしの部分が、ジャータカに言及しているのです。

たった一行ですが、日蓮の手紙に出てくるのです。ということは、日蓮も相手方も、このたったの一行で意味が足りた。すなわち、日蓮の同時代の人々にもジャータカの物語は相当に知られていたと考えられるのです。

次に、また別のよく知られている話を説明します。

ガンジス川の岸辺の木の上で、猿が休んでいました。

そこにワニがやって来ます。そのワニは、妻に自分の病気を治すために猿の肝をとってきてくれと頼まれて来たのです。

ワニは猿を何とか騙して、生き肝を取ろうと画策します。そうして、次のような誘いをかけます。

「お猿さん、ガンジス川の向こう岸にとてもいいところがあって、そこには木の実が多くて、おいしい果物が手に入りますから、行ってみませんか」

ー そう誘われた猿はワニの背中にヒョッと飛び乗ってガンジス川の沖合いまで行きました。相当に行ったところで、ワニは水中に沈もうとしました。

「アレ、大変だ、溺れてしまう」と猿は驚きました。そこでワニが言うには、「ああ、おまえさんはばかだな、わしはおまえさんの生き肝が欲しくて、妻から頼まれたから、ここまでおびき出したんだよ」と言いました。

すると猿は「なんだ、生の肝なら、あそこの木の上にぶら下がっている」と木の実が熟れてなっているのを指して、「あれが私の生き肝だ」と言いました。するとワニはそれを取ろうと、その近くまで行きました。

そこで猿はヒョイと岸辺に飛び降りて「ワニのおばかさん」と言ったという話なのです。
(ジャータカ 第 二〇八 本行集経 三四 巻)

これは本当にたわいもない話ですが、考えてみると、人を騙(だま)したり、騙されたり、これも今の浮き世の姿じゃないでしょうか。我々凡夫の生活もそんなものだということも言えるのでしょう。

(B) ワニさんとお猿さんの知恵比べ、騙し騙され、お猿さんの勝ち、といった寓話ですかね。

よくわかりませんが。

次です。

ー 真理を寓する ー

(A) これもジャータカの一種と言えるかもしれませんが、大勢の目の不自由な人達が象に触れてみて、象をああだこうだと評価する物語が、「義足経」というお経の中にあります。

それから、パーリ語の仏典にも出てきますが、これらは、実は今の私達のことを言っているのじゃないかと思います。

所詮、私達は限られた存在なのです。凡夫なのです。だから、世の中の真相を見ると言っても、自分の物の見方だけでとらえている訳です。それで自分の知っていること、考えていることだけが絶対に正しいと思う。けれども、まだ足りないところもあるのじゃないかという反省が、少し足りないのではないでしょうか。

そうした物語、たとえ話が仏典では最初の時代から出てくるのです。これをみると、人々に対して慈しみを持つ、同情をするということは、これらは自らを限られた存在だと自覚するところから起こるのです。人をゆるすということです。つまり、他人の立場を理解してから、自らの立場を省みるところから出てくる訳なのです。ジャータカのような、ああしたたとえ話には、人生を生きて行くための、偉大な真理が寓せられている、寓話に込められている、と言えるのではないでしょうか。

考えてみると、国と国との対立でも、それぞれの国のイデオロギーというもの、それを絶対だと思うから、他の国はまちがっていると考え、果ては戦争をしかけるというようなことになる訳です。

もしも相手の身になって考えてみることを、個人の生活の場だけではなく、広く、国と国との間でもそういう思いやりを人々が持つようになれば、そこではじめて平和が実現されるということになるのではないでしょうか。

ともかく、ジャータカには色々と教えられます。昔はパーリ文のジャータカを読むことはなかったのですが、この頃では平易な現代語訳も出版されてきたので、読者の方々は、それぞれの話を微笑し、あるいは、苦笑して読まれることでしょう。

(B) なし。

以上で、Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 までを終わります。

次回、息抜きをはさんだ後は、Ⅱ 人生の指針 第二部 後世における発展 からになります。

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①追記: 2021/01/31 02:47
②追記: 2021/01/31 06:21
③追記: 2021/02/03 07:55
④追記: 2024/04/21 03:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。