これまで、インターネットやユーチューブで様々な情報に触れることができるようになって、情報開示が進んだことを肯定的にとらえてきました。
しかし、これはまだまだ途上ですね(順調にすべてが完成(唯物論の悪い方の意味合いの完成ではないですよ)まで行き着くことができるとするならば。
残念ながら、人間=肉体人間観と自己保存の本能、そしてそれにもとづく唯物論の思考が根っこにある限りは、その厳しい制約を免れることはできないでしょうね。
般若心経に後付けで加えられたであろう(?)、顚倒夢想を、完全に、いや、そこまでいかなくとも、かなりの程度克服できない限り、安心立命するのは難しいからです。
信仰による安心立命を唯物論者の誰をも納得させらるように説得できる保証は今のところはまだない。
いや、まったくないでしょうね。
そもそも、本人が嫌がるのに、無理矢理説き伏せようとするのは、業想念をつくり出すことになる。
祈りや日々の行いで、感化していくしかないと思われます。
そして、神様という光の道筋を信じて、不安に駆られながら、迷いながら、進んでいくより他はない。
不安、恐怖、業想念。
世界平和の祈りをしながら、守護の神霊さんに感謝をしながら、真善美に悖(もと)る想いと行いの過去世からの業想念を浄めて頂きながら、紆余曲折を経ながらも、少しずつ進んでいく。
これが信仰の道。
そんな風に思います。
信じる(させる?)の時代は終わる、I believe の時代は終わる、知ったらおしまい I know の時代になるというのは、やはり唯物論の考え方だと思います。
知ったところで、因縁が解消されなければ、何も変わらない。
何一つ変わらない。
変えることさえもできない。
同じ情報に接しても、人によって理解の仕方は様々で、反応が一様ではないことから、これはわかるのではありませんか。
たとえ、家族でさえも、同じ情報に対する理解力が著しく異なり、対応の温度差にも大差が出る。
最悪の場合には、分断とも呼べる状況にまでなるくらいに。
それなりに、過去世からの深い縁で結ばれたであろうはずの家族でさえも、分断されてしまうほどに、因縁因果の壁は厚いのです。
従って。
いくら知っても、何をしても、迷いの想い、悪い想いの集積である業想念、つまり、過去世からの悪い因縁が解消されない限り、(この世での)因果は好転していかないとしか考えられないんですよ。
自己保存の本能に縛られた肉体人間の頭で考え出した理屈では、因縁因果の壁は破れない。
もしも破ることができる(?)とすれば、それは真理にもとづいている場合のみが考えられる。
しかし、そもそも、真理にもとづいている理屈とは、神様のみ心に適(かな)うもの以外にはない。
神様が因縁因果の法則、すなわち、原因と結果の対応法則をおつくりになられたのならば、これを超えるものは、神様のみ心に適うもの以外にはないことになる。
因縁因果を好転させていく道。
よい想いを出すこと、加えて、祈りと感謝行で、積極的に、少しでも因縁因果の改善に努めていくこと。
こうした選択の道が信仰だと思います。
そして、最終的に行き着くところは感謝一念。
身の回りをはじめとする、ありとあらゆることに感謝できるようになること。
神様ありがとうございます、の感謝一念。
これこそが、妙好人の源左さんや才市さん、宇右衛門さんが到達された境地ですね。
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①追記: 2021/08/03 12:12
②追記: 2021/08/03 21:35
③追記: 2021/08/04 05:00
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。