おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

294_俯瞰

もうだいぶ前から唯物論には限界を感じていたのですが、以前様々な社会の仕組みを学ばせて頂いた、追及派(?)の、KS さんや SM さんのブログもすっかりご無沙汰になってしまった。

この人達は宗教にたまに触れることがあっても、実質の内容が唯物論なので、いくら読んでも業想念を抱くことにしかならないから、申し訳ないんですけど、もう見る気がなくなってしまったんですよね。

やはり、心配や恐れを抱くことはもうしたくないので。

今はどうされているのかはまったくわかりませんが、ふと思ったことを、特に SM さんに関して書いてみたいと思います。

私達は今でこそ(限られているとはいえ)様々な情報から、社会を俯瞰(ふかん)して見ることができるのだと思います。

しかし、江戸時代末期から始まり、明治、大正、昭和と当事者となっていた人達は、ごく一部を除いて全体像なんかわからないままに、権力欲や出世欲なら権力欲や出世欲のまま、権謀術数なら権謀術数のまま、思想に殉じるなら思想に殉じるまま、あるいは、その日その日を、ただひたすら必死に生きるしかなかったんじゃないですかね。

だから、はるか後の時代から分析して、あいつがどうの、こいつがどうの、手羽先だの、と、どんなに批判したところで、頂上周辺のごく一部の階層を除いては、全体像の俯瞰ができず、それなりに生きるのに精一杯だったんじゃないですかね。

SM さんのような優秀な人でも、仮にこれらの同時代に生きていたら、さすがに全体像は読めないし、俯瞰もできなかったんじゃないかと思うんですよ。

何が言いたいのかと言うと。

過去に学んで何とかしようとしても、唯物論じゃあ、それも批判や非難じゃあ、とても埒(らち)があかないのだから、過去の歴史に去って行った人々の天命を祈りましょうよ、ということなんです。

批判や非難で、真と善と美に悖る業想念を積むのはやめて、過ぎ去りし日の方々への鎮魂の祈りを捧げてみませんか、と言いたいんです。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行によって。

かなり後の時代になったからこそ、それなりに俯瞰して、あれこれ言えるけれど、同時代を生きていたならば、同じような境遇にならなかったとは、誰も言えやしないんだから。

過去の時代を生きていた人々をとやかく言っても、それは様々な情報からある程度の俯瞰ができるようになった今だからこそ、やっと言えるようになったことであって、同時期、同時代を生きていたら、とてもこんなことなんかわからないはずだ、と考えられるからです。

まあ、私の言うことは、十年一日の如(ごと)く変わりません。

ただただ、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして頂くようお願いするだけです。

唯物論で行き詰まったら、是非ともお願い致します。