おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

057_輪廻と信仰

題名が大袈裟な割に、ちょっと、卑近な例になって恐縮だが、先の ( 055_依頼 - おぶなより ) の(*2)で取り上げた、KI さんの事例と自分の経験も加味して、これを 2 回にわけて見ていきたいと思う。(*1)

俺は、大袈裟で身勝手で不遜ながら、神様に復讐してやる、と思う苦しみを味わった(下の方に書いた悩み事のことです)。

これとは、別の話になるが、ある親類縁者に、いろいろと困らされ、結構な目に遭(あ)わされた。

それが、不思議なことに、いくつかの大事に加え、チマチマとしたことながら、次から次へといろんな問題が起こり、これを片付けると、待ってました、とばかり、また次が起こる。

それも、当人の作為が絶対に及ばない、外部要因によって問題が起きてくる。

俺は、思ったよ。

これでもか、これでもか、って、一体何だよ。もう、いい加減にしてくれよ。いつまで続くんだよ、と。

俺は、幼少時に多少は世話になったことはあるが、現世でこんなに面倒をかけられるいわれはないはずだ、と思った。

気を取り直して、尽くせば尽くすほど、まるで、嘲笑(あざわら)うかのように、次がくる。

一回、ひっぱたくか、張り倒してやりたいと思ったこともある。最低でも、怒鳴りつけてやる、と思っていたところ、当人が病気になってしまい、これさえも、叶わなく?なってしまった。

五井先生を知ってはいたが、まだあまり内容がわかっていない時期だったので、おぼろげながら、コレが世間にいう、因果ってやつか、と思うしかなかった。

KI さんも、これでもか、これでもか、と同じパターンの乗り捨て裏切りを、やられたんですよね?

もちろん、メチャクチャ不条理だし、相手の女性を恨んだだろうし、激しく軽蔑しただろうとは思います。

当事者でないと、なかなか、痛みや辛さはわからないものですしね。

ただ、不思議に思うことはありませんでしたか?

なせ、よりによって、こんな同じパターンの仕打ち?が、これでもか、これでもか、とまるでお仕置きのように、イヤというほど体に沁(し)み込ませてわからせるかのように、図ったように繰り返えされるのか、と。

偶然にしては、あまりにもできすぎている。

俺の場合は、そう思ったんですよ。

一体、こうやって、何を悟れと言いたいんだ?と。

何をわからせたいんだ?

もし、高みから、こんな恣意的なことを差配できるとすれば、それは神様を置いて他にない。

じゃあ、何をわかれと言いたいんですか?と。

無論、KI さんは、大変な目に遭わされたには違いない。

御愁傷様としか、言いようがない。

そして、

自分は何一つ悪くないんだ。

こんな目に遭わせた、アイツら( KI さんのお付き合いした女性達)だけが悪いんだ。

一体、自分のどこに非があるっていうんだ?

何度もそう感じたことと思う。

こういった気持ちは、俺にも多少はわかる(おこがましくて申し訳ないが許して下さい)。

ただ、本当にそれだけしか、感じませんでしたか?

この、恣意的に図ったような、一個人の作為では絶対になし得ないような偶然が、何度も繰り返されるのは、どう考えても普通じゃない。

決して、ただの偶然などではない、運命だか何だか知らないが、こうして受け入れざるを得ないようにことが運ぶのは、ただごとではない(ちょっと大袈裟だけどご容赦を)と、思ったんだ。

先に、神様と言ったが、神様が、こんな一個人にわざわざ采配を振るうことなど、どう考えてもあり得ない。

ならば、理屈を超えた、何かこの世を貫く法則が存在し、これが作用しているのではないか?と思ったんですよ。

そこで、一般によくある精神世界の本も読んではみたのだが、どうも、勧善懲悪の類いで単なる唯物論の説教と大差なく、やたらに裁きたがる不安定なものばかりで、結局、納得のいくものが見つからなかった。

そこで、その前に、縁もあったので、ほんの少しずつ祈りをするようになり、五井先生の本もだんだんに読むようになっていったんです。

現段階で考えているのは、自分の経験は、因縁因果の因果が重なって起きたか、あるいは、守護の神霊さんが、輪廻転生を俯瞰して、集中的に過去世の因縁を解消すべく浄めて下さっていたか、のどちらかだと思う。

つまり、不可抗力の出来事を経験することによって、目には見えないし、唯物論の理屈ではわからないけれど、何らかの形で、この世に作用する法則や仕組みがあることに、思い至ったんです。

そして、五井先生の本を少しずつ読むうちに、概要はこうだろう、と徐々に理解するようになっていった。

あまり批判的なことは書きたくないので、詳述しないが、俺は今流行り?の引き寄せ系には、あまり肯定的な印象を持てずにいる。

残念ながら。

もちろん、完全否定ということではないのだが、少なくともあの一連の出来事は、引き寄せではない、と確信している。

KI さんは、ご自分の被害経験をどうお考えになるかはわからない。

だが、この世の不可抗力の出来事に遭遇した時に、唯物論でしか理解できない範囲で、自分には何の落ち度もないからと、ただ、外部要因だけを、批判、非難していても、事態はまったく好転しないし、実効がないとは思いませんか?

現世、つまり、自分が生まれてから今まで、人様を傷つけたり、苦しめたり、明らかな悪いことをしていない、または、落ち度がないからと、自分に害を為す外部要因を、ただただ、糾弾するだけでは、その後も同じことを繰り返すことにはなりませんか?

それでもいいんだ、自らの信じる正しいと思った感覚で、これからも物事を判断していくし、行動するし、意見を主張するまでだ、と言われるのならば、もう、俺には何も言えません。

善がある、悪がある(五井先生的に言えば、悪は存在せず、消えていくものになるが)、とこの世の中だけを見ていくと、どうしても納得がいかないし、心安らかにはならない。

この行き止まりの苦しい浮き世を、温かく、穏やかに、微笑み合い、生きていくことに、思いを馳せることも、お時間があれば、お考え頂きたいなと思ったんですけどね。

余計なお節介で悪いんだけどさ。

なので、この世での不可抗力な出来事、中でも不条理に遭遇した時に、唯物論の認識と思考の範囲では、どうしても、その理解にも対処にも、限界があることをご理解頂き、霊性の開発といった別の道も模索、検討されたらどうかな、と考えたんです。

ただ、霊性の開発といっても、霊的なことは、それこそ、唯物論に負けず劣らず、玉石混淆で、いろんな人がいろんなことを主張している。

なので、俺なりに、何とか一つの目安くらいは、何とか示せたかな、と思っていますけどね。

あと、これは、勝手な希望なんですが・・・。

俺が想定しているのは、世界平和の祈り一念の信仰で、最終的には妙好人のような、穏やかな人格者になってもらうことです。

五井昌久著 生きている念仏 (白光出版)に出ている、宇右衛門(うえもん)さんのようになれれば、最高で完璧です。(*2)

いうことなしです。

ただ、現代の唯物論に明け暮れているほとんどの人には、理解不能かもしれないけれども。

霊的能力その他を授かって、この世に生を受けた人なら、危険を避けながら、良き指導者や先輩のところへ守護の神霊さんが導いて下さるだろうし、これがない人でも、これはこれで、市井(しせい)の中で、一祈り人として、やっていけば、十分だと思う。(*3)

お願いしたいのは、明るい人になってほしいということです。

それも、自然ににじみ出るような明るさをもったような。

もちろん、生まれつきで、はつらつとした明るさを個性にもった人など、いろいろな人がいるでしょう。

霊性が開発されれば、守護の神霊さんが、天賦の明るさを活かして、よきに導いて下さるとも思いますしね。

自分のことで申し訳ないが、俺はなかなか明るくなれないんですよ。

元々は、能天気というか、明るかった。しかし、不可抗力の悩み事が出て、苦しむようになってからは、どうしても、明るくなりきれなくなってしまった。

世の中は広いし、下には下で、もっと多くの悩み事を負い、苦しんでいる人は、それなりにたくさんいると思う。

本来なら、これでも、いろいろあること、できることに感謝しなければならないのだとは思う。

それは、頭では理解しているんだけど。

しかし、どうしても、もっともっと恵まれている、悩み事のない、遥かにたくさんの人々を見るにつけ、世をすね、人を恨み、神を呪うような、心の底に沈む澱(おり)のような気持ちを、拭いきれなくなってしまった。(*4)

なので、写真の表情を見る時があると、以前に比べて、澱の気持ちが反映された表情だな、前の明るさは戻らなくなってしまったのかな、と思うことがある。

やっぱり、顔つきに出てしまっているな、と。

まあ、人様は、他人のことなんか、いちいち見ていないから、気づかないようだけど、自分自身としては、ああ、この表情は、と感じるのよ。

情けないけどね。

気持ちが弱いのかな。

本来なら、霊性の開発にいそしみ、誰もが備えている元々の神性を、霊光を出せるようになれば、自然に明るくなるはずだと思うのだが、想念と行為が、まだまだ汚れていて至らないためか、なかなか、うまくいかない。

なので、勝手な物言いで、恐縮なのだが、せめてこれから祈りを始めるしっかりした人には、明るくなってもらいたいなと思います。

ということで、失礼しました。

あと、ちょっと、次回 ( 058_輪廻と信仰2 - おぶなより ) に続きを書きます。

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(*1)卑近~ひきん~身近で理解しやすいこと。また、そのさま。

(*2)お人によっては、嫌だ、という場合があるかもしれない。

もし、これで輪廻転生が上がりになってしまい、肉体人間としての快感追求や享楽三昧ができなくなってしまうのは嫌だ、と。

まだまだ、肉体人間としての五欲が捨てられないんだ。

まだまだ、貪りたい。

諦めきれない。

欲望への未練が断てないから、まだまだ肉体人間生活をするんだ、輪廻転生を上がってしまいたくない、と。

大丈夫ですよ???

宇右衛門さんのような境地は、仮に目指そう、と決意して取り組んでも、そう簡単に到達できるもんじゃありませんから。

おそらく、つまずいたり、転んだり、想念を乱しながら、苦労して、少しずつ霊性を開発して、遥か彼方の背中を追うのがやっとだと思いますから。

そんな簡単に輪廻転生の上がりになる人は、滅多にいない。

だから、まず、大丈夫です。

まあ、保証はできないし、責任も持てないけどさ。

KI さんのことを、引き合いに出して悪いけど、彼のようなまっとうな青年でさえ、宇右衛門さんには、霊性の点では、遥か彼方で、まるっきり及ばない。

問題にならない。

そもそも、比較することが無理で、その前段階といったところではないですか?

唯物論の思考しか認めない人は、たとえ、どんなに人格者でも、他人を厳しく裁くことがやめられず、霊性の開発の入口にも来ていない場合がほとんどだと思いますから。

まあ、それはともかく・・・。

唯物論に行き詰まったら、霊性の開発の道をお考え下さい。

よろしくお願い致します。

(*3)市井~しせい~人が集まり住んでいる所。まち。世間。俗世間。

(*4)澱~おり~液体の下のほうに沈んだかす。

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①追記: 2024/04/06 01:52
②追記: 2024/04/06 01:58
③追記: 2024/04/06 02:11
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。