おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

664_ひしみー085

前回( 663_ひしみー084 )の続きです。

なお、以下の内容は一般的な仏教だけにしか関心がない方は、飛ばして(=省略して)下さい。

また、神様の分け命という、輪廻転生を通した永遠の命、霊性を前提にした話になりますので。

前回までには、主に神体に(霊体、幽体そして)肉体をまとうことにより、避けることができないものとして生じてくる、肉体にまつわり生じてくるところの、生・老・病・死について見てきました。

ただ、お釈迦さんのような特殊な例を除き、私達は主として、この世に、何度もの生まれ変わり、すなわち、あまたの過去世において溜め込んできている、真善美に悖(もと)る(=反する)想いと行いの業想念をなかったものとするための償い、すなわち、それらの清算のために生まれてきている。

肉体を得て、この世をわたっていくためとはいえ、本来はなかった自己保存の本能を与えられたためにエゴに走るようになってしまってもいるので、どうしても、業想念を生じることは避けられない。

従って、業想念を生じさせては世を隔てて償い、業想念を生じさせては、世を隔てて償い、のような繰り返しを経ながら、順次地球さんを開発しつつ、各自の霊性を漸次向上させてゆく。

お釈迦さんのような特殊な例を除き、よほど過去世の因縁が良すぎる人でない限りは、生・老・病・死と、病・争・貧・苦は、いわばセットになっており、ともに避けられないものと考えられる。

病・争・貧・苦の病は、変化する肉体に固有の老衰のようなものではなくて、過去世の業想念により、その清算のためにやむを得ず生じてくる病気であり(生・老・病・死の病と重なるともとらえられなくもないが、ここでは便宜上分ける)、争いや貧乏や人間関係をはじめとする様々な苦労なども、あわせて考えないと、輪廻転生を通した生き通しの魂=神様の分け命、を前提とした、今生を含めた各自の個別の人生を考えることが、必要だと思われるのだ。

だから、生・老・病・死には、病・争・貧・苦をあわせて考えないと、片手落ち(不適切な表現かもしれないが、今は適切な表現が他に見つけることができなかった)になってしまう。

よって、私達は、原則として、この世に肉体人間として生きていくには、どうしても、何らかの形で、肉体をまとうことでの生・老・病・死と過去世の業想念の清算、償いとしての病・争・貧・苦を味わわざるを得なくなっていると言うことができます。