おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

341_法話50-27

27. 一切のかぶりものを取る

心の汚れを捨てていない人が、
黄褐色の法衣をまとって、
自制しようとしないならば、
法衣にはふさわしくない。

(九) (第1章 対句 より)

S さんによると、インドでは、仏教の僧侶だけではなく出家者も黄褐色(おうかっしょく)の服を着るそうです。

植物は枯れていくと黄褐色になっていき、白い着物も長く使えば同じく黄褐色になっていきます。これらは、すべて枯れて老いて滅びゆくことをあらわしているそうです。

出家者は、俗世を離れたので、その色の着物を着るとのこと。

袈裟(けさ)の原語は、カーサーバで、黄褐色の衣やアク、汚れという意味があるそうです。

そして、S さんは、この黄褐色の袈裟をまとっていても、心が俗世の汚れに満ちているなら、自他共に欺いているのだから、袈裟を着るにはふさわしくない、としています。

まあ、そりゃそうでしょうね。

人としてのあり方、特に心(以下、想いとする)のあり方が、世間の人々の模範となるべき聖職者が、世間一般の人々より程度が低く、汚れた想いを持っているんじゃ話にならない。

とは言うものの。

過去の歴史には、生臭い政治に深く関与した、奈良時代道鏡(どうきょう)のような僧侶さんもいた訳だし、聖職者だからと言って、高潔な人格者とはならないのが、ままあるんでしょうね。

どれだけ法力を備えていても、人格が高くなければ、やはり及第点には至らないのでしょう。

神様の世界は本当に厳しい。

いくら記号めいた外観で、内面を取り繕うとしても、想いの問題、想いの世界を整えて高めることは、はるかに厳しく、人格を高めて行くことが難しい。

嘘偽りのない裸の想いが、外観にも反映されている。そうした雰囲気(今で言えばオーラですかね?)をまとい、醸(かも)し出している。しかも、その上で、絶え間なく高みを目指して精進していく。

そうした姿勢が、修行者のあるべき姿勢になるんでしょうね。

まあ、このような時代ですから、修行者のみにとどまらず、一般的な私達も霊性の開発をして、想いを浄めて、その水準を向上させていくことが必要となる。

そんな風に感じます。

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①追記: 2021/04/27 12:35
②追記: 2024/04/27 16:33
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。