おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

364_法話50-47

47. 中道とは超越道である

あらゆる道の中で八正道(はっしょうどう)が最も優れている。
あらゆる真理の中で四諦(したい)が最も優れている。
あらゆる徳の内では離欲が最も優れている。
人々の中ではブッダが最も優れている。

(二七三) (第20章 道 より)

(お断り)経文を部分的に改変(漢字化)しています。ご了承願います。(*1)

以前、中村さんの原始仏典のお釈迦さんの臨終のところ(チュンダの供養を受けた時の話)で、以下の 2 冊の本を参照しました。

(1)露の団姫(つゆのまるこ)著_団姫流 お釈迦さま物語_春秋社

(2)ひろさちや著_釈迦_春秋社

この (2) の中に、こうしたすっきりした概念分類(?)に疑問を投げかける箇所がありました。

実は、私もどちらかというと、そんな気がしている部分があるのですが、今回はとばします。(*2)

なので、S さんのお話をまとめます(要約・意訳・改変・省略などあり。なお、お釈迦様も敬称を略して釈迦とする。ご了承下さい)。

人間の生き方、道は様々だ。

どの人のどの教えがいいのか簡単には判断できない。

しかし、釈迦は八正道が最も優れているとした。世の中には、100 % よいものも、100 % 悪いものも、ひとつとしてない。すべての現象において、極端な2つのものは成立し得ないのだ。両極端な2つのものがぶつかり合う時、やがてはどこかで必ず、まあまあ、いいところ、におさまるものなのだ。

自然界でも、人間の世界でもそうだ。ただ、人間界の場合、それが両者にとって必ずしも納得がいく形でおさまるとは限らない。勝者、敗者ともに、互いに不満は残る。要するに、そこには正しい道が存在しないのだ。

しかし、釈迦は、それを超越した道を示した。それが中道である。これは、極端の真ん中をとるとか、均衡をとることではない。それは、「超越道」とも言うべきものだ。「判断をしない生き方」「決めつけない生き方」なのだ。

ところで、世の中に起きる様々な問題は、すべてこの中道的な智慧が欠落しているために起こる。私達は日常生活の中で様々な判断をして生きている。物事は、二面性、いやそれ以上の多面性の部分があり、どれが正しいと決めつけることはできない。たとえ、物事を多面的に見ても、そのすべてを判断することはできない。ましてや、物事を一方的に決めつけたり、偏(かたよ)った物の見方をしていれば、問題はますますこじれるばかりである。

中道のものの見方、生き方を身につけるには、どうすればいいのか。

釈迦は、中道とは八正道を歩むことだ。幸せになるにはこの八正道しかないと説いた。

正見(しょうけん)、
正思惟(しょうしゆい)、
正語(しょうご)、
正業(しょうごう)、
正命(しょうみょう)、
正精進(しょうしょうじん)、
正念(しょうねん)、
正定(しょうじょう)の、

8 つの実践によって、あらゆる偏見を乗り越え、すべての事象を客観的に観(み)ることができる。八正道は誰もが納得して歩むことのできる道だ。

正見は、偏見のない正しい見方であり、物事を、ありのままに観ることだ。

正思惟は、正しく論理的に考えることだ。釈迦は、怒りのわくようなことを考えてはいけない、慈しみのわくことを考えなさい、と言った。

正語は、ウソをつかない、きつい言葉を使わない、無駄話をしないことだ。

正業は、正しい行為であり、殺生や盗みや邪(よこしま)な行ないをつつしむことだ。

正命は、他人のものを盗んだり、人をだますようなよからぬ仕事ではない、正しい仕事だ。正しい手段で、人のためになる仕事だ。

正精進は、正しい努力で、心を清らかにするよう努(つと)めることだ。感情的にならない努力である。

正念は、しっかり気づくことだ。過去を悔やまず、未来を心配せず、今をしっかり確認して気づくことだ。

正定は、いつでも落ち着いて、安定していることだ。

この八正道は、具体的には手始めに正語から入るのがよいと思われる。すべてをいっぺんに実践するのは、無理なので、わかるところから始めればよい。

一つでもしっかり実践できれば、すべてに通じていくことになるだろう。

そして、ひとつが完成することによって、8 つすべてが自ずと完成に向かって行くのだ。

~~~~~

(*1)S さんの本では、四諦(したい)のふりがなもついていなければ、一切の説明がない(八正道にもふりがなはついていない。自分で調べなさいということなのか)。

四諦とは、
苦諦(くたい)、
集諦(じったい)、
滅諦(めったい)、
道諦(どうたい)

の 4 つの真理を言う。

苦諦は、人生は苦であり、自分の思い通りにはならないこと。

集諦は、諸行無常を知らないために起こる執着が苦の原因になること。

滅諦は、迷いの煩悩の炎を消した、涅槃の境地のこと。

道諦は、涅槃の境地までに至る道筋のこと。

これらが、一般的にお釈迦さんが最初の説法で説いたとされている。

(*2)ひろさんは、その著書の中で、
四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)・十二縁起(じゅうにえんぎ)を、
お釈迦さんが弟子に教えたことが古来からの通説とされていることに関して疑問を呈している(私は、さらに、縁起に関する世界認識の仕方について、神様を認める考えから前回疑問を書いたけど)。

少なくとも、最初の段階では、お釈迦さんは、そんな体系的な教理・教学を構築していなかったはずだ、と。

あれらは、お釈迦さん亡きあと、仏教学者や仏教哲学者達が、彼の教えを体系的・教学的にまとめたものではないか、と。

だから、あの経文のブッダをお釈迦さんと読み替えると、これが当てはまるような気がするんですよ。

お釈迦さんが、こう言った、というよりも、後世の僧侶や学者にそのようにされている、と。

あの経文の順番を逆に読めば、肉体人間の中では、お釈迦さんが最も優れている、偉い。

その彼が説いたものが、以下の 3 つだ。

たからこれらは、それぞれ、最も優れているのだ、と権威づけしているような経文に読めるんですよ。

ちょっと、話がそれますけど、大村大次郎という人の書いた、「ブッダはダメな人間だった」(ビジネス社)という本があります。

かなり刺激的な表題の本ですが、既存の考えにとらわれない独自の見方をしている箇所のある本です。

この人の本にも、ブッダ(お釈迦さんのこと)の教えには、体系的な教義はなく、その教えは複雑だったり、難解ではなかったのではないか、としている箇所があります。

私もどちらかというと、このお二方に近いですけど、すべての大元に神様を持ってきて、神様の全面肯定と霊性の肯定から話をはじめる点が明らかに違います。

だって、こんな小難しい教義(すみません)を会得したって、いざ、生活の場に、実践の場に活(い)かすことができなければ、何にもならないことになりはしませんか。

いざ、問題が起きた時に、サッと適切に(神様のみ心に沿うように)対処できる。

たった一つの神様のみ心に適(かな)った行いは、いかなる万巻(まんがん)の書物を読破することよりも、いかなる広大・深遠な知識よりも勝(まさ)る。

そうじゃありませんか。

こういう点では、古(いにしえ)の妙好人の人達は、ブッチ切りで、秀(ひい)でていますよ。

ただ、本を読む限り、ひろさんも、大村さんも、基本的には神様を認めていない唯物論者みたいに見えるんですよ。

やっぱり、神様を根本から認めないから、話がああいった形になる。

どうしても、発想の根っこが唯物論から離れない。

五井先生の本にありましたけど、神様を根本に認める考え方になれば、(悲喜こもごも、艱難辛苦を含めても)つまるところは、どうしたって、神様ありがとうございます、になってしまうと思うんです。

そうすれば、あらゆることに感謝をすることができる。

それが、宗教の極意ではないのか、と思いますけどね、個人的には。

だって、すべてのものをあらしめているのが神様ならば、感謝するしかないでしょう?

しかも、その存在が悪魔(?)のような意地悪で悪質なものでない限りは。

そう思うんですけどね。

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①追記: 2021/05/09 03:38
②追記: 2024/04/28 09:38
③追記: 2024/04/28 09:39
④追記: 2024/04/28 18:17
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。