おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

368_法悟28-0-1

前回( 367_法話50-50 )までに、スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老(これは長いので、すみませんが、以下、Sさんと略します)の 法句経一日一話 を法話と題して全部の 50 節を見てきました。

1 節ごとの分量もさほど多くはなく、大体、見開きの 2 ページかそれ以上という感じでした(全 203 ページ)。

同じく、法句経(ダンマパダ)を扱った続編の 1 冊、S さんの著書 法句経一日一悟 (全 226 ページ)は、法句経一日一話 と外観と厚さはほぼ同じながら、全体が 28 節なので、1 節ごとの文章量は、前著の約 2 倍近くあります(字自体も小さくなり、行間も狭まり、行数も増えているので、よけいに分量を感じる)。

なので、このブログ自体も 1 回あたり、これまで以上にやや長めの分量になるかもしれませんが、この点はあらかじめご了承願います(できる限り要約するように努めます)。

以下、法句経一日一悟 を法悟と題して見ていこうと思います。

まず、おさらいになりますが、S さんの前著書の解説(前書き)も含めての法句経についての概要です。

ダンマパダ(=法句経)は、宗教宗派の違いを超えて世界中の人々に愛されている仏教の経典の一つです。

日本では大乗仏教が先に入って(日本にとっての)伝統的な仏教となっており、法句経などは、近代(明治、大正)になってようやく知られるようになってきたという、特異な経緯で入って来ています。

というのは、歴史的には法句経は初期仏教の時代の経典で、大乗仏教の経典はお釈迦さん(以下、敬称を略して釈迦とする。ご了承下さい)が亡くなったずっと後の時代の発展系の経典だからです。日本には先に大乗経典が入り、近代になってようやく法句経が入るという、入り方の順番が、本来の歴史的なものとは、まったくの逆になっているのです。

ダンマパダは、直訳すれば、真理のことば、という意味になります。

おそらく、釈迦の直(じか)の教え、または、これにきわめて近い流れを汲(く)んだ経典と思われます。

壮大なお話というよりは、地道で渋い哲学のようなお話という感じでしょうか。

S さんによると、釈迦は教条主義的に教えを広めたのではなくて、待機説法(たいきせっぽう)のような形で、真理を悟らせ、しかも実行させるようにしていた、とされています。

すなわち、釈迦が真理を、
「普遍的でなければいけない。
矛盾があってはいけない。
例外があってはいけない。
誰もが実践できることでなくてはいけない。」
としていた、とお書きになっています。

S さんは、この法句経を味わい、実践して、人生の悩みや苦しみを乗り越えて行き、お釈迦さんの言葉は真理だと自らの実感とすることで、一人でも多くの人が平和で幸せな人生を歩まれることを願っておられるようです。

以上は、法句経一日一話 の前書きを含めての紹介ですが、今回からの 法句経一日一悟 の前書きについても触れておきます。

ざっと、まとめます。

S さんは、世界の平和は、まず個人の平和から、と考えているようです。

しかし、その個人は、現代において、幼少時から大人まで、ずっと競争社会にさらされ、競争原理しか幸せに生きる方法がないと思い込んでいるととらえています。

幼稚園に通う前から、敵と戦うようなアニメを見て、小、中、高、大学、社会人とずっと競争にさらされる。

個人の平和、平穏(へいおん)は夢のまた夢。

私達はこのままずっと激しい競争に耐え続け、苦しみやストレスを抱えながら生きていかなければならないのか?

いや、問題解決の糸口はある。

人類最初の競争原理を超えた、真の幸福と平和を語った人物がいるから。

S さんは、この人物こそ、釈迦だとしています。

という訳で、私達の人生に平和をもたらすブッダ(釈迦のこと)の常識を超えた智慧(ちえ)を身につけて、皆さんが幸福になることを祈っておられるそうです。

(お断り)私は、中村元さんの原始仏典に関するものを含めて、この S さんの内容に関しても、意訳などをして要約するだけにした回もいくつかありますが、霊性の面から違った話をかなり書きます。

最近はまとめが多くなりましたが、本来は、むしろこっちが主体です。

この点は、申し訳ありませんが、あらかじめご承知置き下さりますよう、お願い申し上げます。

次回は、再掲(さいけい)になりますが、法句経の章立てをご参考までにあげておきます。

では、次々回以降から本題に入っていくことにします。

よろしくお願い致します。