393_法悟28-13-2
第 2 週 人生苦と向き合う
6 少数派になることを恐れない
世間の人々は盲目である。
少数の者が真理を理解する。
とり網から逃れ出て、
空に生還する鳥が少ないように。
(一七四) (第13章 世の中 より)
すみませんが、保留中です。
以前書いてあった内容をまた操作ミスで、下書きに戻すを押してしまい、実質的に消失させてしまったので、うろ覚えですが、少しだけ書きます。
確か、自分では、パレートの法則やリチャード・コッチの 80 対 20 の法則の本も、こうしたものを淵源とするものてはないか、と書いていた気がします。
そして、この世に生を受けることは、数多(あまた)の過去世で溜め込んでしまった、真善美に悖る想いと行いの業想念があるからこそ、であり、それを浄(きよ)めて消失させる、あるいは、この世の因果として受けることで、因縁因果を完結させる。
ただ、肉体人間が、人間=肉体人間観から、五感にまつわる各種の飽くなき欲望の追求や、自らと近しい者の生命保存と利益追求により、普通に積み重ねる業想念は多大なので、そのままが悪い因果としてすべてこの世にあらわれてしまったら、相争いや天変地異で、この世は滅びてしまうので、神様が私達肉体人間個々に遣わした守護の神霊さんが、その裁量の範囲内で、業想念を浄めて消して、この世での具現化を防ぐ形で、守って下さっている。
だから、原則としては、この世に生を受けるということは、消失させる、あるいは因果として受けなければいけない過去世から溜め込んでしまった業想念のある者というこになる。
つまり、この世的に見ると、業想念の積み重ねに、大きな個人差やばらつきがあるにしても、とにかく、圧倒的に多数派がこの世に生を受ける人。
逆に、肉体人間は、神様の働き場所であり、受け器である、とわかって、その想いや行いが、神様のみ心に沿ったようにできる人=悟った人、または、これに近づきつつある人は、圧倒的な少数派というか、ほとんどいないと思われる。
さしづめ、この経文で言えば、自らが幸せになりたいと、唯物論の価値観で五感にまつわる各種の欲望の最大化と自らとその近しい者だけの、利益を最大化させようと努力することが、かえって業想念をつくる要因をつくり、あたかも、鳥が網にからめとられるたとえに匹敵するものと解釈できるかもしれない。
いずれにしても、霊性の開発まだまだ足りない場合には、神様のみ心を、想いと行いにおいてあらわし得ている人々は、少数派ということになるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
①追記: 2021/05/30 07:05
②追記: 2021/05/30 07:07
③追記: 2021/05/30 07:16
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。