一応、以前お断りした順番で書いていこうとすると、どうしても書けなくなるので、順番が前後したり、内容があちこちに飛ぶかもしれないが、とりあえず、思いつくままに、四諦と八正道について書いていくことにする。
ご了承下さい。
今回書くのは、四苦八苦と霊性の開発の必要性についてです。
仏教ではこの世は苦だとされていると言われることが多い。
ひろさんによると(改変・意訳あり。以下すべて同様(*))、
生まれることが苦(生苦)で、
老いることが苦(老苦)で、
病むことが苦(病苦)で、
死ぬことが(死苦)、
とされていて、これが四苦となる。
生苦が生きること=人生は苦だとする人がいるが、ひろさんは、これは間違いだとしていて、あくまでも、(この世に)生まれることが苦だ、としている。
そして、
愛する者と別れなければならない苦(愛別離苦)と、
怨(うら)み・憎む者に会わなければならない苦(怨憎会苦)と、
求めるものが得られない苦(求不得苦(ぐふとくく))と、
これら 7 つの苦を総括した苦(五蘊盛苦(ごうんじょうく)、
との併せて 8 つで、「四苦八苦」とされる。
そこで、ひろさんは、「苦」の意味を考えたそうだ。
人生には、苦しいことばかりではなくて、楽しいこともあるではないか、と最初は考えたそうだ。
だから、苦がそれなりのかなりの比重を占めていたとしても、すべてではないと感じていて釈然としなかったそうだ。
そこで、ひろさんは漢訳仏典で「苦」と訳される原語は、サンスクリット語(古代インド語)で、「ドゥフカ」であり、本来の意味は、「思うがままにならない」ことだと紹介している。
そして、ひろさんは、この意味ならば、誰もが納得できるとして次のように言う。
私達は、いつまでも若く老いたくないと思ってもそうはいかず、死にたくないと思っても死は免れない。富も名誉も欲しいままには得られない。それ以外の求めるものもそうだ。それが「苦諦」だ。
ところが、こうした思うがままにならない事柄を、思うがままにしようと抵抗する。病気になれば治したいと願っても上手くいかないことがあり、思うがままにならない。つまり、「苦」が生じる訳としている。
ならば、私達は、こうした抗いをやめればよい。そうすれば「苦」にならず、抵抗できず思うがままにならないで、勝手に苦しむこともなくなる。
このように考えて「苦諦」を命令的に捉えれば、これは「苦にするな」(気にするなの文字りか?)という教えになるとしている。
だから、思うがままにならないことを苦にするな、そうすれば悩む必要などない、と。
また、異論を唱えるというか、ケチつけになるかもしれないが、いくつかの疑問を呈したい。
まず、その 1。
ひろさんは、「苦」が思うがままにならない意味なら、誰もが納得できるとしているが、私は違うと思う。
というか、そもそも、「思うがまま」とは何のことだ?
ここから始める必要があるはずだよ。
なぜならば。
人間を世間一般的な人間観(本を読む限り、ひろさんもそうだ)で、人間=肉体人間だけだ、としているのと、人間は肉体人間そのものではない、あくまでも神様の分け命を本体・本質とする存在だと捉えるのでは、以下の理解がまったく違ってくるからだ。
その理解とは。
これまでも、所々に書いてきたが「自由自在」である。
神様の分け命の自由自在、中でも神様の分け命を本体とする肉体人間としてのあるべき形の自由自在は、神様に等しいもの、すなわち、何でも思うがままにできるといっても、他者を損ねたり、自分だけがいい思いをするためだけの自由自在ではないからだ。
自分のためにもなり、他者のためにもなり、みんなのためにもなる。つまり、誰かしらを損ねて、他者を押し退けて、自分だけの利益を追求する、そうした自由自在を求めるものとは根本的に異なる自由自在である。
私の別のブログの 004_孤独 で、私達が肉体人間が自分の自由意志を通したいと書いたが、この肉体人間が自由意志を通したいのは、すなわち、自由自在を求めるのは、元々のこの神様の分け命としての自由自在から来ていると考えられるのだ。
元々の神体としては、真善美に悖らない、神様のみ心に適う形での自由自在を求めていた。
これが、元になっている、と。
ところが、世間一般的な人間観やひろさんの人間観では、肉体人間観の自由自在を意味することになるんですよ。
いまだ悟りを開いていない、すなわち、神様のみ心に沿った、想いと行いができていない、業想念を含んだ自由自在なのである。
こうした、自由自在では、往々にして、自己保存の本能にもとづいた自らを中心とした利害得失計算の利益を最大化する、つまり、利己主義による自由自在になりがちである。
こうした業想念に満ちた利己主義で行動しがちな肉体人間の自由自在が意味するところの思うがままというのは、他者を損ねたり、みんなのためにならなかったりと、あまり良いものとはならない可能性がかなり高いのだ。
こうした自由自在なら、むしろ、実現しない方が好ましいのではないか?
こうしたことは、むしろ、「思うがまま」にならない方がいい。
だから、ただ単に「思うがままにならない」というのではなくて、肉体人間として過去世の因縁を解消するためにこの世に修行として生まれてきて、様々な周囲の与えられた環境を、神体のように自由自在にすることができないという制約を課されているという、利己主義を通せないという意味合いも含めた意味でも自由自在にならない、ということを指して、「この世は苦だ」としていると理解した方がいい。
悟りを開いていない肉体人間として、諸行無常に変わる様々な自らを含めた周囲の環境すべての移りゆく姿を変えることはできないものがたくさんある。
これを指して、「この世は苦だ」と言っている。
そう解釈すべきだと思う。
肉体人間観の「思うがまま」に神様のみ心に沿わない業想念が含まれる以上、この表現を使うのは適切ではなく、この表現を使うことには、少なくとも私は納得できない。
従って、ひろさんの「誰もが納得できる」としているのは、正確さに欠けると思う。
次、その 2。
ひろさんは、「苦」にするな、そうすれば悩む必要などない、万事解決だ、のように書いている。
しかし、仮に私の「その 1 」で書いた理解とは異なるひろさんの理解で(私の理解でも)この世は苦のように、理解できたからといって、そう簡単に問題が解決するはずがない。
頭では理解できても、気持ちでは納得できないことは、この世には山ほどある。
なぜならば。
悟りを開いていない私達肉体人間は、五感をはじめとして感じ取れる、ありとあらゆるものに対する執着があるからだ。
そもそも、この執着(仏教では執著(しゅうじゃく))を無くすことができるのは、悟りた人、お釈迦さんをはじめとして厳しい修行を積んで阿羅漢になることができた人達だけだからだ。
ましてや、現代人には、阿羅漢に匹敵できる霊性の高い人は、まず存在しないと思われるのだ。
だから、頭で理解できたからと、「ハイ、そうですか」と簡単に納得できることの方が、はるかに少ない、というか、圧倒的に少ないと考えられるのだ。
従って、ひろさんの言うように、「苦」にしなければ、ちっとも悩む必要はないなどと、そんな簡単には解決するとは考えることはできない。
私達いまだ悟りを開いていない肉体人間には、自らをはじめとして周りの環境を自由自在に変えることはできないし、霊性の高さの程度によっては執着というとらわれもなかなか離すことはできないからだ。
こうした現状を認識することと、それなりに霊性を開発(現代では自力修行は無理だと思う)して執着を無くせるように努めていくこと。
これを実行して、その人の霊性の開発による霊性の高さによって、執着というとらわれを離すことができるかどうかが決まる。
だから、あのような四苦八苦を理解しただけでは、執着というとらわれを離すことはできない。
四苦八苦の理解と各人各様の霊性の水準に応じた霊性の開発、これを行ってはじめて、執着というとらわれを離す可能性が出てくるとすべきである。
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(*) ひろさんのお話の内容は、
ひろさちや著 釈迦 春秋社
を参考にしている。
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(追伸)ショウタロウ様、はてなスターを頂いてありがとうございました。
軽く読んでいた時には、すぐに通過できると思ったのですが、急に引っ掛かり進めなくなってしまいました。
御礼として、できる限り、力を尽くして書いていこうと思います。
ありがとうございました。
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①追記: 2021/10/27 03:09
②追記: 2021/10/27 08:03
③追記: 2021/10/27 22:05
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。