おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

051_祈りと念力

前回 ( 050_喚起 - おぶなより ) で SM さんに、その安定度を見込んで、祈りのお願いをしました。

ただ、私の今までの内容を見て頂ければ、おわかりになると思いますが、祈りとは、再三再四引用した、 世界平和の祈り のことです。

間違っても、他人を損ねるような、真善美に悖る業想念にもとづく、邪(よこしま)な念力ではない。

絶対に違う。

ちょっと復習ですが、祈りとは、命を宣(の)りだす、命を宣言することです。

では、命とは何か?

少なくとも、私達、肉体人間に限っていえば、これを生かすもの、生命活動を支えるものですね。

心臓を動かし、肺を動かし、・・・と、体の各種身体器官を働かせている、不思議な力です。

起きている時も、寝ている時も、いついかなる時も、生命活動を維持してくれている、不思議な力。

この、生命維持活動が、完全になくなってしまうと、寿命が尽きた、ということになる。

補助があってもなくても、生命維持活動の完全停止になれば、生きていることができなくなり、肉体は物質に帰してしまいます。

この不思議な力はどこからくるものか、と考えたら、神様しかないですね。

私達は、神様からくる、この不思議な力によって、生きている。

逆にいえば、この不思議な力が、なくなってしまえば、生きていけない、ということですね。

つまり、私達は神様に(他動的に)生かされている、ということになりますね。

私達は、この不思議な力、神様の力で生きている、肉体人間に、宿っているというか、入っている、この不思議な力を生きている。

要は、私達肉体人間各自は、この神様の不思議な力を分け与えられて、それぞれに、生きているということです。

これが、いつも言うところの、神様の分霊(わけみたま)ですね。

この命が肉体に入っている時、つまり、肉体人間ではあるけれど、神様から分け与えられた命を、神様の分霊としての命を、生きている時に、これを言う、告げる、宣言することが、神様の命を宣(の)りだす、となる訳です。

私は、神様の命を、生きている者です、と。

ですから、神様の分霊の規模や格?が異なるとはいえ、私達は、その本質が、同じ神様の光の分かれ、いわば、同胞な訳です。

数多の過去世から積もりに積もって堆積している、真善美に悖る、厚い厚い業想念に覆われてしまっているために、わからなくなってはいますけどね。

この、私達は同胞だということが。

なので、本来ならば、お互いを、慈(いつく)しんだり、いとおしんだり、愛し合うことはあっても、損なうなどの愚かしい行為は、あり得ないのですよ。

従って、他人の毀損を願うこと、それは、祈りではない。(*1)

絶対に。

まあ、実際は肉体人間として、この世に生まれてしまった以上、原則として数多の過去世において積んでしまった真善美に悖る業想念の清算が課されている(例外あり。既述)ので、この祈りの意義は、一般的にはわからないでしょう。

惑星(地球さん)開発を視野に入れて付与された、動物的な本能ばかりに目が向き、モノ、カネ、女(男)となりがちだから・・・。

神様の分霊としての命を生きている、つまり、この命こそが自分であり、神様の命の分かれであり、更に言えば、自分は神様なのである、ということを、忘れ果てているのが、私達(の大半)だと思いますからね(悟りを開いていないから、実感もできませんし)。

この命こそが、私達そのもの、つまり、神様の分霊、神様が本質であり、これが本体なのである、ということです。

ちょっと、グチャグチャしてすみませんが、私達が一人の肉体人間として生きているというのは、本体の神界の神体、霊界の霊体、幽界(想いの世界)の幽体、現界(この世)の肉体の、いくつもの体をまとって、貫きながら生きている、ということになります。

この、真善美に悖る業想念に、まみれ果てている?私達(の大半)には、現世(この世)の肉体人間だけが命であり、人間だとしかわからず、霊なる人間こそが、本当の人間であり、神様の子供なのだ、とわからないのが普通ですからね。

この、真善美に悖る業想念に、まみれにまみれて、忘れ果てているところの、神様の命、いわゆる、神性を思い出し、宣言するための行為が、祈りである、と。

妙好人の人達が、南無阿弥陀仏と言って、阿弥陀如来様(神様のことですね)と一体化させたまえ、と真摯に念仏を唱えることが、これに当たります。

世界平和の祈りの方が、意味が広く、現代に適(かな)っていますけどね。

つけ加えると、祈りと違う念力は、真善美に悖る業想念ですから、本来、神様の世界にあるべからざる(=あるべきではない)ものとして、消えてゆく姿となってあらわれてきます。

どうなるか?

人を呪わば穴二つ、のように、最終的には、自分に返ってくるんです。

仮に、一時的に多少は相手に変化が出ることがあっても、最終的にはすべて累積されて、自分に返ってくる。

真善美に悖らない、適うものは、いくら積んでも、害が出ることはありません。

返ってきても、いいことなので、何ら問題はありません。

ありがたいくらいです。

この点が、祈りと邪な念力の決定的な違いです。

なので、祈りと称した他人の毀損の念力は、その本質において、祈りとは似ても似つかない、邪なものなのです。

似て非なるどころか、完全に異質な邪道なるものなのです。

まあ、SM さんが、世界平和の祈りをお読み下さらなかった、万一の可能性を考えて、念のために書いておきました。

巷には、祈りと称して、邪な念力を、すすめている人がいますのでね。

貴方は、その人の、戦争は自然現象だ、の物言いに、PART(PとRが逆みたいですね。それとも故意かな?とにかく、書き間違えと想定して話を進めます)というバカはと、かなり憤慨されていましたから、こうした人の言には、唯物論であれ、唯心論であれ、霊的なことであれ、惑わされることは、まずない、と思います。(*2)

ただ、貴方は宗教、特に霊的なものには、かなり懐疑的でしょうから、浄土門妙好人のことや、世界平和の祈り(これは、貴方の疑うであろう、大本(おおもと)の系譜になります)を、深くはご理解(研究の意味です)頂いていないかもしれませんのでね。

念のために、書かせて頂きました。

更に、もっと念を入れると・・・。

生長の家が後付けで出してきた、平和の祈りはまったくの別物です。

本質がまるで違います。

私が、お願いしたいのは、あくまでも、宗教家の五井昌久さんの提唱した、世界平和の祈りです。

これ以外のものでは、あり得ません。

絶対に、です。

以上、よろしくご理解のほど、お願い致します。

~世界平和の祈り~

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様(しゅごじんさま)ありがとうございます

これです。

この一式が、世界平和の祈り、になります。

~~~~~

(*1)毀損~きそん~①こわすこと。
②名誉や利益などを傷つけること。
ここでは、②の意。

(*2)貴方も、すでにお気づきだとは思いますが、あれだけの様々な内容に、しかも詳細に言及しておきながら、戦争を自然現象とする。

これだけでも、そのRAPTという人の立ち位置が、わかるのではないでしょうか。

私なら、そう判断します。

まあ、上手の手から水が漏れてしまった、ということかもしれません。

あの結論に誘導するつもりが、そのやり方を誤った、と。

ましてや、貴方なら、もう、おわかりのはずで
す。(*2ー1)


祈りの使い方や意味付けもおかしい(というか、危険な)ので、目くじらを立てず、完全無視というか、そのRAPTという人については、すべて素通りにして、今後一切かかわらない方がいいと思います。

さわらぬ神に祟りなし、です。

唯物論にこだわるならば、三十六計逃げるに如(し)かず、で、時と場合によっては、撤退も必要です。(*2ー2)

とにかく、金輪際、かかわりをもたず、一目散に逃げ去ることも、時と場合によっては必要だ、ということです。

ところで・・・。

以前書いた KI さんは、バカだの、ビッチだのといった言葉を、当たり前のように使っていた。

貴方も、やはり、バカだの、クズだの、と使っています。

俺としては、お二方とも、こういった言葉を使うのは、やめてほしいんだなあ。

どうしても、やめられないのであれば、祈りを併用してほしいのですよ。

業想念をもったままでいいから、世界平和の祈りをして、守護霊さんと守護神さんに感謝する。

これを、お願いしたいのですよ。

まあ、因縁因果次第だとは思いますが、できたら、よろしくお願いします。

~~~~~

(*2ー1)こうは、書きましたけどね。

韓非のような、厳しい冷徹な見方をもってすれば、読者としての私は、貴方すら疑わなければならなくなるんです。

どういうことか?

貴方ほどの優秀な人が、私が気づくような、そのRAPTという人の綻(ほころ)びに、本当に気づかないのか?

いや、そんなハズはない。

絶対に気づいているはずだ。

貴方が、戦争は間違いなく八百長なんだ、何バカなこと言ってやがるんだコイツは、と単純に(素直に?)怒っているのは、極めて疑わしい。

SM さん。

貴方ほどの優秀な人が、こんなお人好しであること自体が、おかしい、不自然ではありませんか?

違いますか?

どんなに、それまで、義侠心があり、粘り強く努力を積み重ねてきた姿を見てきていても、韓非の目にかかれば、一瞬の油断も、隙(すき)も、取りこぼしも、許されないんですよ。(**2ー1ー1)

ちょっとした隙も、忽(ゆるが)せにはできないんです。(**2ー1ー2)

戦国時代のような状況なら、命取りになるんですからね。

だから、このような見方をすれば、私は、貴方すら疑わなければならなくなるんです。

でも、これは、一種の厳しい生存競争、サバイバルのようなもので、常に気を張り、疑いの目を凝(こ)らして、物事を見なければなりません。

気の休まる暇など、微塵も許されないんです。

常に敵襲に備えている、宮本武蔵のようなものかもしれません。

まさに、究極の生き残りを賭けたような、地獄の想念を、常に抱いていなければならないのです。

前に、K2 の綱渡りのことを言いましたが、これも、地獄の責め苦の中での綱渡りのようなものです。

真善美に悖る業想念が、飛び抜けて深い人、例えば、因業(いんごう)人間やサイコパスなら平気かもしれませんが、普通のソコソコの業想念の人なら、耐えられず、参ってしまうと思いますよ。

そもそも、本体が神様の分霊なのですから、付与された動物的な本能ばかりを最優先させて、無理に無理を重ねているからです。

従って、いつかは、必ず破綻する時が来る。

しかも、その破綻の時までには、はかり知れないほどの業想念を積み、どれだけの悪業を積んでしまうか、わからないのです。

そして、その結果は、芭蕉の句にあるように、

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡、

となる訳ですからね・・・。

いい加減、もう、やめにしましょうよ、こんなことは。

素直に霊性の開発をして、業想念を浄めていき、神性に近づいていきましょうよ、と言いたいんです。

現代は、この芭蕉時代とは異なり、かなり大がかりで、用意周到な仕掛けが、できあがってしまっていますから、一般的な立場の人は、唯物論では、どうすることもできません。

また、繰り返しますが、貴方ならわかっているはずです。

貴方が追及してきた数多の事実を突き合わせれば、突き合わせるほど、ますます、状況はどうにもならないことが、わかってくる。

そうじゃ、ありませんか?

SM さん。

さらに言えば、唯物論で考える限り、とうの昔に詰んでいた、と。

もう、私達の一人でも多くの人に、神性を取り戻してもらわないと、どうにもならない。

神様にお助け頂き、お導きを頂くしかないのですよ。

だから、毎度、毎度、世界平和の祈りを、お願いしている訳です。

十年一日(じゅうねんいちじつ)の如くに。

アホと罵られようが、バカと侮られようが、やめない。

(残るはもう)これしかないんだから。

~~~~~

(**2ー1ー1)
・義侠~ぎきょう~正義を重んじ、弱い者を助けること。おとこぎ。おとこだて。

(**2ー1ー2)
・忽せ~ゆるがせ~注意もはらわず、いいかげんにしておくこと。おろそか。なおざり。

~~~~~

(*2ー2)
・三十六計~さんじゅうろっけい~むかしの兵法にあった三十六種のはかりごと。転じて、多くの計略。

・三十六計逃げるに如かず~困ったときや追いつめられたときは、どんな策よりも逃げるのがいちばんよい。

・兵法~へいほう~いくさのしかた。兵術。戦術。戦略。
(用例)孫子の兵法

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①追記: 2022/08/02 22:44
②追記: 2024/03/20 12:38
③追記: 2024/03/31 17:55
④追記: 2024/04/01 07:30
⑤追記: 2024/04/01 07:33
⑥追記: 2024/04/06 01:03
⑦追記: 2024/04/15 12:05
⑧追記: 2024/04/15 12:08
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。