おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

384_法悟28-9-1

第 2 週 人生苦と向き合う

2 時を逃してはならない

若い時に、財を得ることもなく、
修行もしないのなら、
魚のいない沼にたたずむ
(老いた)白鷺(しらさぎ)のごとく、
やせ衰えてしまう。

(一五五) (第11章 老い より)

若い時に、財を得ることもなく、
修行もしないのなら、
的を外れた矢のように朽ちる。
昔のことばかり思い出して悔やみながら。

(一五六) (第11章 老い より)

また、適当にいきます。

私達がどう生きようと時間の流れは一定だ。のんびりしようが、焦ろうが、お構いなしだ。だから、ある程度節度を持って時間を過ごしていく必要がある。そうすれば、充実感も得やすくなるだろう。

ある程度の成果が求められる場合には、焦ってもダメ、のんびりし過ぎてもダメなのである。

時宜(じぎ)を踏まえ、やるべきことを、やるべき時にやらなければならない、ということだ。

学業、仕事、家族づくりと家系の継承など、肉体人間の寿命が決まっている以上、ある程度の適する時期があるのだ。そのタイミングを逃さないようにしよう。

皆さんは中々心を落ち着けて物事を見つめないから、「今は仕事が面白いから結婚はしない」などと言っているうちに、結婚適齢期が過ぎてしまうのだ(?)。そういう人に限って、ふと仕事が面白くなくなってきたところで、ああ、結婚できなかったと悩むことになるのだ(ひどい)。もしも、過去について悩む羽目になってしまうと、それは失敗の人生だ(ひどい)。

だからと言って、仏教が、ヒンドゥー教儒教のように、人間は社会で定められたプログラム通りに生きよ、としている訳ではないのだ。仏教では、決められた道を歩まねばならない、とは言っていない。自分の意思で進路を決められる。

しかしながら、どんな道を歩もうとも、時間の制約だけは逃れることはできない。焦らず、のんびりし過ぎず、きちんと時間の流れにそって仕事をして、目標を達成しなければならない。そうすると、年をとっても年をとった人なりの仕事が必ずあるので(?)、とても楽しく生きられるようになるのだ(??)。

私達は日々刻々生きている。その中ではやらなければならない仕事が必ずあるはずなのだ。それを淡々とこなしていけば、人生は楽になる(?)。

反対に、大げさな計画を立てたりすると、人生が観念的になってとても生きづらくなるのである(?)。計画が大げさでも、それを構成する実際の行動は一分単位だ(?)。だから、今の一分で、あるいは、一時間で、一体何をすべきかを具体的に気をつけて、それだけをやっていけば、結構楽になるのである(??)。これこそが、死ぬ瞬間まで、充実感を持って生きる方法なのだ(???)。

時間は一定の速さで絶えず変化している(?)。同時に自分も絶えず変わっていく。だから、 20 才でやりたかったことを、 40 才でやっても意味がない。 20 才でやりたかったことは、 20 才の人にふさわしい楽しみであって、それを 40 才でできるようになっても、面白くも何ともないのである(?)。ただ、やるべきタイミングを逸しただけの話だ。それが成功した人生だとは思わない。

繰り返すが、ここで話しているのは、「だから親の決めた道を歩め」とか「社会の決めたルールに乗って生きろ」というのではない。

「自分はこういう生き方をするんだ」と決めてもいいのだ。ただ、どんな生き方をしても、時間の制約を逃れることはできない、ということなのだ。一分ごと、一時間ごとに、小さな単位で今何をやるべきかを発見して、それを行えば落ち着いていられる。人生は成功する(?)。自分の人生を後悔することなどなくなってしまうのだ(?)。

前半の偈(ここでは経文のこと。一五五)には少し説明が必要かもしれない。インドの社会では、若い時にまず、修行をするのか、在家でいるのか、を決める。修行は一生をかけることだから、学校へ行くのか、それとも、修行道場へ行くのかを、早い時期に決めるのである。学校にも道場にもいかず、フラフラしていたら人生はもう終わりだ。

在家の場合は、若い頃にたくさんの仕事をしてお金を儲ける時間なのだ。現代の若者で言えば、フリーターばかりやっていて、どんどん年をとってくると、「そろそろ安定した職に就かなくちゃまずいなあ、結婚もできないなあ」とわかってくるのだが、もう時間が遅い。時間がずれている。それで一生ずうっと不安になって、悩んで心配する羽目になってしまう。「結婚したいけどできなかった。きちんと仕事に就きたかったけど就けなかった」という具合に、中途半端な生き方をしなければならない。しかも年をとっているから、フリーターでも中々仕事にありつけないとか、大変なことになる。だから、安易に時間を無視して生きてはいけない。

前半の偈には、老いた白鷺の話が出てくる。もし若い白鷺だったら、エサ場の沼や田んぼに魚がいなかったら、他のエサ場に軽々と飛んで行ける。しかし、老いたら、もうそんな遠くへは飛べない。だから、かわいそうに、もう魚もない、ほとんど水が枯れかかった沼で、ただ時が過ぎるのを空しく待っているだけなのだ。私達も飛べない状態になってしまったら、もう悩むしかない。「若い時にもっと・・・」と悔やんでも、もう遅くなってしまっている。

後半の偈(一五六)には、弓から放たれた矢の話が出てくる。的に当たらなかった矢は、落ちた場所でそのまま朽(く)ちていく、壊れていく、何の価値もなくなってしまう(?)、とされている。矢ならきちんと的に当たった方がいいだろう。だから、過去のことを思い出してなやんだり、悔やんだりするのはやめよう、という意味なのだ(?)。

それから、昔の人々の生き方は、現代とは異なり、精神的に豊かになることと、経済的に豊かになることの二つを人生の道としていた。はっきりと道を二つ決めていたのだ。

しかし、今は一つの道しかない。ただお金儲けだけに社会が塗りつぶされてしまっている。

ところが、昔には、人生の目的は二つあったのだ。偈文の中に修行(プラフマチャリヤ)という言葉が入っているのは、そうした理由からなのだ。

とのこと。

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追記: 2021/05/25 00:32 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。