第 2 週 人生苦と向き合う
5 100 % 純粋な人
ひたすら非難されるだけの者、
ひたすら褒(ほ)めそやされるだけの者は、
過去にもいなかったし、未来にもいないだろう。
現在にもいない。
(二二八) (第17章 怒り より)
もし賢者が日々絶え間なく検証した結果、
「智慧と戒めを体得した完全たる人格者である」
と称賛するならば、
(二二九) (第17章 怒り より)
純金のごとき、
そのお方を誰が非難し得るだろうか。
神々も彼を称賛する。
梵天(ぼんてん)でさえも彼を称賛する。
(二三〇) (第17章 怒り より)
また、独断と偏見を書きます。
前回( 390_法悟28-12-1 )も冒頭に書いたけど、何が言いたいんですかね、これらの経文は。
何のためにあるの?
特に、中段と後段。
お釈迦さんが、完全無欠だ、偉いんだ、だからどうしたって言うの?
もし、あの青年バラモンの話が本当ならば、私達、一般的な人間にはまったくの無縁の話。
悟りに近づきつつある、かなりのできた人でさえも、まだまだ、輪廻転生を重ねてやっと可能性があるかどうかなんじゃないの?
何が言いたいのかと言うと。
あれは、私達、一般的な人間には、無縁な話で、わざわざ、あんな祭り上げのご丁寧な話をクドクドしないでも、いいのではないか、ってことです。
だって、超例外的な事例で、普遍的ではないのだから。
私達が目指すべき最終地点だとしても、あまりにも遠すぎるんですよ。
お釈迦さんを知らない人や、他の宗教の信仰者には、権威づけのためのお話にしか、見えないんじゃないですか?
あまりにも出来すぎた権威づけのエピソード(?)は、人によっては白ける可能性さえ、あるような気がするんです(個人的には)。
あー、お釈迦さんは、あんなに偉いんだ、凄いんだ、なら、私達は新たに仏教を信仰しよう、元々の仏教の信徒さんならば、もっともっとより信仰を深めよう、という人達にはいいのかもしれないけれど、それ以外の人には・・・と考えてしまうんですよ。
ましてや、バラモン青年の観察が、24 時間連続で、それも半年ぶっ続けを、しかも 2 回もやったとなると、本当かいな、と疑ってしまうんですよ。
バラモン青年は、バラモンの秘匿(ひとく)の教え(?)である、三十二面相の観相学を修めたような人だから、超常的なその他諸々の能力もそなえていたのかもしれない。
しかし、あそこに書かれていることを、額面通りに受けとれば、24 時間ぶっ通しの観察を一睡もせず半年間も続け、しかも、そうした似たような観察を 2 回も繰り返したなんて、明らかに神話みたいな話じゃないですか。
毎日、定期的に時間帯を変えて、それで半年間の観察を 2 回ならわかるんですけどね。
ほめるのもいいけど、ほどほどに。
だって、一般的には、過去世の因縁を果たすためにこの世に生まれてきた人が、多いのだから、あまり、装飾が過ぎる美談ばかりすると、妬(ねた)みや、嫉(そね)みや、反感を買ってしまい、余分な業想念を抱かせることになる。
これでは、宗教者(ここでは宗教を広めたい人。良き教えを広めたい人の意味合い)としては、本末転倒ではないですか。
信仰者やそうでない一般的な人々までも、静かに、穏やかに、しかも、確実に感化していく。
そうした、やり方(宗教の広め方)の方が、望ましいと、個人的には考えます。
もう、アドバルーンをぶちあげて、衆目の目を引くような、唯物論的なやり方に通じるようなあり方は、ある程度、考え直す時期にきているのではないか、と個人的には考えます。
なお、非難だけされる、称賛だけされる、の人間はまずはいない、というのは、現在の肉体人間がどのようにして、この世に生を受けるか、を考えれば、自ずと理解できると思います。