おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

394_法悟28-14-1

第 2 週 人生苦と向き合う

7 人生の達人になるための条件

真理を語ること。
怒らないこと。
頼まれたら少しでも助けてあげること。
この三つを実践する人は、
神々の世界に行くだろう。

(二二四) (第17章 怒り より)

また、適当にいきます。

私( S さんのこと)はある時、子供からこんな質問をされた。

「いい人間になりなさい、とおばあちゃんに言われるんですけど、どうすればいいんですか、いい人間って何ですか」

私( S さんのこと)は戸惑ったが、この偈(げ。詩文。この経文のこと)に答を見い出すことができた。

まずは、真理を語ることだ。ウソをつかず、事実を曲げずに語ること。そうした方が生きるのは楽なはずだ。自分勝手に作り話をせず、事実をありのままにストレートに語ることだ。

その方が人生は楽なのだ。しかも頭が悪くならない(?)。様々な事実をきちんと覚えておき、しっかりとしたデータにもとづき話をすると、頭がよくなるのである(?)。

逆に、自分で妄想して様々な創作をしようとすれば、頭は混乱する(?)。

ウソをつかず、事実と真理をありのままに話すことで、頭がよくなり(?)、いい人間になるのである(??)。

二つ目は、怒らないことだ。怒りを自分で管理できるようになれば、人生の達人と言えるだろう。とにかく、怒りは禁物である。

三つ目は、頼まれごとは、ほんの些細(ささい)なことでも引き受けるということだ。不可能なことは、できなくても仕方がないが、努力はすべきである。そうしないと、いい人間になれない(?)。これを実践すれば、生きるのもとても楽になるのだ(?)。

事実を語り、怒らないようにして、人からの頼まれごとを少しでもやってやる。この三つが、いい人間になるための条件なのである(?)。

ブッダ(お釈迦さんのこと)は「そういう人は、神々と一緒になるのだよ」としている。立派な人間になりますよ、という意味だ。このように説明すれば、子供にでも理解できるのだ(?)。

これら三つの条件の中でも、特に難しいのは、怒りのコントロールである。

ブッダは、ダンマパダ(法句経)の中で、次のように言っている。

暴走する車をコントロールするように、
わき上がる怒りを管理する人。
彼のことを私は御者(ぎょしゃ)(人生の達人)と呼ぶ。
他の人はただぼんやりと手綱(たづな)をもっているだけ。

(二二二) (第17章 怒り より)

怒りは強力な猛毒をもつウィルスのようなものだ。感染力が強く、心に入り込むとアッという間に体中に広がる(?)。(体の?)細胞の一個一個にまで、この怒りの強烈なエネルギーが行き渡るのだ(??)。怒りはとてつもない猛毒なのである。

問題なのは、心が怒りに感染すると、自分で管理ができなくなることだ。話してはいけないことを話し、やってはいけないことをやり、大失敗をして、頭が混乱してしまうのだ。

だから、私達は決して怒りを好んではいけない。怒りを生みそうな考え方もやめるべきだ。

テレビも怒りが出そうだと感じたら、見ない方がいいだろう。その方が、得なのだ。本を読んでいても、ジワジワと怒りがわいてくるようなら、読まない方がいい。

嫌になるなる気持ちも怒りの一つだ。何だか嫌だなあ、という気がしたら、すでに怒りがはじまっているのである。だから、何としても、怒りに感染しないように、気をつけるべきなのだ。

怒りというものは、突然こみ上げてくる(?)。これは一種の発作状態だ。だから、怒った瞬間に、これをどうやって排除するのかに、気をつける方がいいのだ。

「俺が頭にきたのはアイツのせいだ」などと怒りの理由を探してはならない。「俺が何回言ってもアイツは聞いてくれない。だから、怒っても当たり前だ」などと怒りを正当化するのが、大間違いなのだ。怒ることは、決して正しくはない。当たり前でもない。怒ってしまったら、怒った本人が猛毒を飲んでいるだけなのだから。

ブッダは、「たとえ自分がノコギリで切られても怒ってはいけません」と説いている(?)。たとえ、残忍な犯罪者に自分が生きたままノコギリで切られても、「怒ってはいけない」「そんな時でも相手を非難するな」と言うのである(??)。

「そんなにひどいことをされても、怒りや憎しみを感じないなんて不自然だ。おかしいではないか」と思う人もいるだろう。しかし、「それさえもダメだ」と断言するのが仏教なのだ。そのぐらい、怒りは危ない猛毒だということだ。

怒りは人間を確実に不幸にする。今は不景気だから「収入も足りないし、子供の学費も上がる一方だ。食品も値上がりし、消費税もさらに上げるなんて、踏んだり蹴ったりじゃないか」と、人間は当然のように文句を言ってしまう。しかし、そこには怒りが隠れている。幸せになりたいのなら、その怒りを管理しなければならないのだ。

人間は怒りを管理できれば、必ず幸せになれる。例えば、給料が減って生活が苦しくなっても「やれやれ、ひどい状態になったものだ。じゃあ、どうしようか」と明るく対応してはどうか。

文句を言ったり、愚痴をこぼすのではなく、明るく対応をするのだ。「少ない収入の中で、どうやくりしようか」を考えるのだ。そうすれば、怒りの毒を飲むことはない。怒りを管理していることになるのである。

人間は毎日、24 時間、悪条件に遭遇している(?)。気分のいいものに出合うのは、ごくまれなことなのだ。

電車に乗りたくても、満員で乗れないとか、買い物にでかけても欲しい特売品が売り切れていたとか、悪条件にだけはいつでも遭(あ)う。

夏は暑いし(?)、冬は寒いし(??)、ごはんを食べようとしたとたんに電話が鳴る(???)。これらにいちいち怒っていたら、人生はやりきれないのだ。

「怒りを管理する人は、人生の達人です」とブッダは言う。ブッダの教えによれば、暴走する車にしっかりとブレーキをかけて、ストップさせられる人は、プロ並みの運転手と言える。

私達の人生は、怒りで暴走しっぱなしだ(?)。どこへ走りゆくのか、どんな事故を起こすか、もう何人ひき殺すのかさえわからない。一人一人の人生が怒りで暴走中なのである。

そこで、ブッダは、「怒りを管理してみなさい。そうすれば、最高に腕のいい運転手なれますよ」と言っているのだ。だから、私達は、自分なりに色々な工夫をして、なるべく怒らないように自分を管理すべきである。

先述のように、私達は四六時中、悪条件に遭遇している。

しかし、人生で自分の体をノコギリで切られるなどありえないし、昔のように理不尽に捕まり野蛮な拷問を受けることもないだろう。

私達が日常で遭遇する苦しみなど、ちっぽけなものだ。誰かに文句を言われたとか、電車の中で誰かに足を踏まれたとか、病院に行ったら一時間半も待たされたとか、夫のいびきで眠れなかったとか、子供が夜泣きをするとか、お姑さんが文句を言っているとか、その程度のことなのだ。

そんな時、ノコギリのたとえ話を思い出してみよう。「たとえ自分がノコギリで切られても怒らないぞ!」というのを、自分のモットーにしておけば、「何だ、日常生活っていうのは、単純なことばかりじゃないか」と気楽に生きられるのである。

とのこと。