おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

416_法悟28-23-2

第 4 週 人格の完成をめざす

2 世にもまれなるチャンス

人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

勝手にいきます。

前回( 415_法悟28-23-1 )、S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )は、いろいろなたとえ話もまじえて、いかに人間に生まれるのは類(たぐ)いまれなことか、貴重なことであるか、をさかんに力説していました。

そうした貴重な機会(チャンス)なのだから、周りに流されない、一般的な生き方とは違うものにも目を向けてみるべきではないか、とも提案をしていました。

それが、真理の探求。

しかし。

真理を知ったところで、何になるの?

それで生活が少しは楽になるの?

どんなに僥倖として、肉体人間に生まれつくことができたとしても、生活に追われていたらどうにもならないのではありませんか?

それでも、生活のすべてを投げ打って、家族を放り出してまでも、自分は真理の探求をするんだ、という人はまずはいないでしょう。

もっと言えば、真理の探求を求めるほどに、過去世での霊的な修行のそれなりの積み重ねがない限り、どんなに唯物論の理屈で説得しても、効果はないのではありませんか?

因縁の機が熟すか、祈りやお浄めによる因縁因果の修正に預かることができなければ、どうにもならないはずです。

因縁因果は、祈りとお浄め以外には、変更する方法がないからです。

その変更も肉体人間の勝手な都合を聞いてくれるような万能さ(?)はないですよね。

肉体人間が自分勝手、身勝手な都合や欲望で運命を変更したくても、それは認められないということです。

あくまでも霊性の向上の観点から許される範囲でしか、変更は許されないでしょう。

となると、一足飛びに、真理の探求に向かうことは、よほどの真理の探求に縁のある人でない限りは、まずあり得ない、ということになります。

そして、仮に真理を知る機会ができたとしても、安心立命ができなければ、現実との落差に苦しみ、落ち着かないのではありませんか?

どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、その想いに引きずり回されない。

想いを乱さない。

安心立命している。

いかにまわりの環境が変わろうとも、達観して、落ち着いて見ていることができる。

こうした境地にほんの少しずつでも近づいていくことが、大事なんじゃないですか?

人身得難しで、肉体人間に生まれてくることは、いろんな意味でありがたいこと。

その確率も少ないみたいだし、今現在の自分の思惑だけで、次に都合よく生まれ変わろうなんて、できないんでしょう(期間は昔は数百年、現代は数年などもあるらしい)。

守護の神霊さん、中でも特に守護神さんと神様のご意向次第で、輪廻転生を通してどんな道筋を歩むかは、肉体人間の頭脳、特に大半を唯物論に染められてしまっている頭脳で考えることとは、まったく違うものになるでしょうから。

神様のお計らいは、特に、輪廻転生については、肉体人間にはわからないのではないですか?

いくら、超のつく希少だから、チャンスを逃すな、と一生懸命に読者を鼓舞(こぶ)しても、現代人はその重い腰をあげないと思います。

S さんは、解脱(=悟りを得ること)できなければ、人格の向上はどうか、とも言っている。

しかし、解脱は、霊性を徐々に開発して、それに伴い人格を徐々に向上させた、その行きつく先にあるものです。

現代人は生活がある程度満たされてしまっていると、娯楽も多いし、真理の探求に向かわせることは難しいと思います。

私(=筆者のこと)は、だいぶ前に宗教の入り方に 2 通りあることを書きました( 336_法話50-23-2 )。

今の病気を治したいなどのこの世の中での困り事を解決したくて宗教へ入るというご利益(ごりやく)信仰的な入り方、
と、
ただただ、純粋に自分が人格的に立派になりたくて宗教に入る純然たる入り方、
の 2 つです。

そういう意味では、現代人は何か解決したくてどうにもならない困り事があり、ご利益信仰的に神様にすがりたくなるようにならないと、なかなか、信仰に入ること、そして、ひいては、真理の探求に目覚めていくことも、難しい状況に置かれているのではないですか?

こうした状況ですから、一気に真理の探求に向かわせるのは、上記の因縁の話も考え合わせると、まず無理なのではないですか?

ただ、こういう真理の探求の道もあると、心にとどめ置いて置けば、因縁の機が熟して、真理の探求に向かう可能性は、人によってはあり得るとは思いますけれど。

人によって、因縁は千差万別以上に異なっていますから、こうした人がいないとは言い切れませんから。

前に、ウソは一切合切ダメだ、認められないというのは厳し過ぎて現実味がない、と書きました( 400_法悟28-16-2 )が、この真理の探求に向かうことについても、ウソの場合と同じように、徐々に霊性の開発をして、人格の向上をはかって、それから近づいていくのが、現実的だと思うんです。

そうして、徐々に霊性の開発をしながら、少しずつでも安心立命を獲得していくようにして、気持ちを落ち着かせるように努力していく。

という訳で、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願い致します。

追伸

S さんは、ブッダ(ここではお釈迦さんのこと)をえらく信奉しているようで(当たり前か)、特別の、さらに特別扱いしていますね。

何劫という、無限億万年(?)にたった一人しか出ない人だと。

おそらく、結果的には権威づけに結びつけたいのかもしれませんけど・・・。

しかし。

お釈迦さんを知らない人や、他の宗教を信奉している人がこれを読んだらどうでしょう?

感服するどころか、かえって鼻白(はなじろ)むのではありませんか?

大覚者さん(お釈迦さん)を祭り上げるのも結構ですが、無欲な妙好人の人達のような地道な祈りが、より意義を持ってきているように思うんです。

派手さはない、誰に認められる訳でもない、ただただ、ひたすら、阿弥陀如来様(神様)とだけ心の対話をして、自己を自然に高めていく。

無欲、無心、感謝・・・。

こうした想いで信仰をしたのが妙好人と呼ばれた人達。

しかも、こうした他力のやり方は、現代では、古(いにしえ)の自力のやり方のような無理は生じない。

生活のごく一部にほんの少しだけでも取り入れることができる。

続けるには根気は要りますが、段階的に精進していくことができる。

なので。

個人的には、こうしたやり方をおすすめしたいと考えます。

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・僥倖~ぎょうこう~偶然にめぐってくる幸せ。

・境地~きょうち~①その時の心の状態。心境。
(用例)悟りの境地。
②置かれている立場や環境。
ここでは、①の意。

(参考) ・境涯~きょうがい~この世に生きていく上で、その人が置かれている立場。環境。身の上。境遇。

・鼓舞~こぶ~(鼓(つつみ)を打って舞を舞うことの意から)人を励まし勢いづけること。