おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

336_法話50-23-2

23. ものに依存しない生き方

前回 ( 335_法話50-23-1 - おぶなより ) (七五)(第5章 愚か者 より)の続きです。

まず、前々回 ( 334_お断り4 - おぶなより ) で書いた、法句経の各番号の収録章の附記ですが、これからのものは当然に附記するとして、過去の記事については、最初から始めて、5 個ずつ附記して更新していくことにします。

その分、収録章の附記だけで各過去記事の更新がバタバタと増えてしまってすみませんが、何卒、平にお許し頂きたくお願い申し上げます。

で、前回の続きです。

とりあえず、引き寄せまでは、突き詰めないことに決めました。

恥ずかしながら、自分もまだ、引き寄せに未練があり、これに頼ろうとする欲を抑えきれません。

特段、実践している訳ではないのですが、現世利益(適切ではないかもしれませんけど、とりあえずこの言葉をあてておきます)がほしいと頼るかもしれませんので。

頭では、信仰の道が良いことはわかっていても、なかなか、この世の誘惑を断ち切ることはできないので。

で。

前回 ( 335_法話50-23-1 - おぶなより ) の S さんの解釈は、この世での俗世での普通の生き方=現世利益に達する、通じる道だ、そして、結局のところは、これだけでは苦しみの道に至ることにしかならないので、安寧への道、心穏やかなる涅槃への道、悟りへの道として、お釈迦さんが道を説いた、としていました。

つまり、
この世での普通の生き方=現世利益への道、
これを解脱する涅槃、悟りへの道=お釈迦さんが説いた道、
としていた訳です。

以下の②も同様な別の訳ですが、ご参考までにあげておきたいと思います。

以下の通りです。

前回の既出の S さんの訳(と思われるもの)を①、別の訳を②として、示し対比してみます。


現世利益に達する道と、
涅槃に達する道と、
まったく相反する道がある。
この理(ことわり)を知っている仏弟子達は、
名誉を喜ばない方がよい。
そして離欲の道を歩めばよい。


一つは利得に至る道であり、
一つは安らぎに至る道である。
ブッダの弟子である努める人は、
この道理を知り、
栄誉を喜ぶことなく、
孤独の境地に専念せよ。

(七五) (第5章 愚か者 より)

まず、おそらくは S さんをはじめ、仏教では一般的な解釈とされるであろう見方から、これらの文言を読むと。

まず、現世利益に達する道と利得に至る道=各種の煩悩に悩まされるこの世での普通の生き方と読めます。

これらに対して、涅槃に達する道と安らぎに至る道=この世での悟りを得る道と読めます。

さて、これを知っている仏弟子ブッダの弟子は名誉を喜ぶな、栄誉を喜ぶな、とはどういう意味なのか。

S さんの本には、前回 ( 335_法話50-23-1 - おぶなより ) の内容からわかるように、これについての解説がまったくないので、皆目わかりません(こういうことこそ、解説をしてほしいんだけど)が、とりあえずは、前後関係から推定したいと思います。

お釈迦さんの弟子(や弟子筋?)は、こうした悟りを得ることのこの世での真理を知っているから、決して思い上がるな、高慢になるな、ということなのか。

もっと言ってしまえば、俗世間の人々や後輩の弟子などの人様から高い評価をされる、崇拝されることにこだわるな、ということなのか。

つまり、思い上がりなどによる(霊性の)堕落に気をつけろ、ということなのか。

堕落しないために、離欲の道(欲を捨て去り)、孤独の境地を守れ(孤独を恐れるな、お釈迦さんの説いた道(理法)のみと自らを照らし合わせて精進することだけに徹せよ)、維持せよ、という意味なのか。

多分、そうでしょう。

仮に、もしこの解釈が当たっているとすれば、理法と自分とを照らし合わせて、自問自答しながら、精進していくという意味合いになりますね、これは(以上の内容には、私の意訳と拡大解釈を含めています)。

これは、私がいつも書いてきた、神様のみ心と自らとを照らし合わせて、自問自答しながら、精進していくことと実質は同じです。

こうしたとらえ方が、おそらく、一般的な解釈なのではないか、と考えられます。

ただ、S さんの訳(と思われるもの)の、現世利益、名誉、離欲の道、中でも、現世利益という言葉に着目すれば、また違った見方ができると個人的には考えます(ただし、これを訳されたであろう肝心の S さんご自身が想定していないようですけど。こうした意味では現世利益という訳は適当ではないと考えられてしまうんだけど)。

まず、S さんは仏教徒ですよね。それもスリランカ仏教界の長老という立派なお方です。

ということは。

現世も利益も、仏教的な意味を持たされた語句だ、と読める。

ごく一般的な私達に向けた表現ならば、すなわち、仏教語ではないならば、わざわざ、現世や利益(りやく≠りえき)をという言葉を使う必要はないからです。

現世だと断らなくてもいいし、利益(りやく)も利益(りえき)だけで十分です。

仏教的なとらえ方(や霊性的なとらえ方)をする場合には、現世は、現在の世の中、この世のことで、利益(りやく)は、仏の力によって授けられる恵みです。

従って、現世利益とは、信仰によってこの世の幸せを受けること、になります。

上記の ① をこのように考えてくると、これは、信仰、宗教への入り方(以下、宗教への入り方に統一表記します)について、書いてあるとも読み変えることもできることになります。

どういうことかと言うと。

宗教への入り方、言ってみれば、神様を求めるあり方が、この世の中を(できるだけ苦しみを伴わずに)うまくわたりたいがための現世利益から入る道か、

それとも、

ただひたすら、自らが仏の子(神様の子)として立派になりたい、そのために様々な修行を通して、自分が仏様の子(神様の子)としての生き方、道をきわめていき(霊性を開発していき)たいがための、出家修行者(比丘)などとしての自己を高める道か、

の二通りにわかれたものがある、ということです。

もっと端的に言ってしまえば、

病気を治したい、貧乏を抜け出したい、家庭内不和などを何とかしたい、といった今のこの世の中での困り事を解決したくて宗教へ入るのか、

ただただ、純粋に自分が人格的に立派になりたくて宗教に入るのか、

の二通りです。

このように考えてきた時、① の理(ことわり)を知っている、とは、この二通りの宗教への入り方を、きちんと分けて考えている、峻別できている、ということです。

本来ならば、宗教への入り方は、自らが人格的に立派になる、仏弟子(神様の子)として、悟りを得る、人格の完成を求めていく道が、正当です。

いつもの霊性的な言い方ならば、地球さんの開発のために自己保存の本能を付与された肉体人間としての霊性を開発して、あまたの過去世からためてきた業想念を払拭し、肉体を持ちながらも、神様の子供としてのそのままの姿、想いや行いをこの世にあらわすことを目指して精進していくことに他なりません。

なぜならば、元々、私達は神様の分霊(わけみたま)を頂く神様の子(仏様の子)であり、どんなに時間がかかろうとも、何世かかっても、いずれは、神様の子としての形をあらわす、神様としての元の形に戻っていかなければならないからです。

肉体人間であること、それだけで、もうすでに救われている、とはこういうこと。

仮に、神様の分霊を、黄金やダイヤモンドなどに例えることを許していただけるならば、肉体人間としてたくさんの過去世から積み重ねてきた業想念という汚れを落とし切ることができれば、元の光輝く黄金やダイヤモンドの素地があらわれる、ということです。

磨けば光る玉だ、と。

だから、救われているんだ、と。

動物も植物も神様のあらわしたものだけれど、こうした点が、肉体人間との決定的な違いです。

ただ、お釈迦さんの在世だった昔ならばいざ知らず、これとは比較にならないほど欲望の誘惑に満ちている現代で、こうした生き方をすることはできません。

まず、不可能だと思います。

中には、こうした高貴なる青雲の志(?)をもって、修行に臨む人がいても、到底、悟りには至ることができず、挫折してしまうのが一般的だと考えられます。

なので、この世での困り事を何とか解決したくて宗教に入ってくるあり方(消極的な(?)ご利益信仰(?))は、ある程度、やむを得ない、と思います。

いわば、ご利益信仰の一形態です。

本筋の入り方ではないけれど、やむを得ない入り方だ、と。

しかし、こうしたご利益信仰と本来の信仰の違いがまったくわからずに、
ただただ、何でもかんでも、この世でうまい世渡りをしたい、うまく立ち回りたい、自分だけがおいしい思いをしたい、と考えてばかりいては、
神様や仏様を自分の欲望のために活用する、悪い言い方をすれば、神仏的なるものを、自らの欲望のために振り回す恐れがある、
という懸念が生じてくるのです(世界平和の祈りには、この懸念が一切ありません。まず最初に人類全体の安寧と調和が第一にあるからです)。

こうした信仰のあり方は、一体、何を意味することになるのか。

一体、何がもたらされてしまうのか。

もし、お読みになって下さった方がいらっしゃれば、お考えになって頂ければ幸いです(これが引き寄せの話につながってきます)。

とりあえずは、この話は、ここまでとさせて下さい。

申し訳ありませんが、ご了承願います。

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①追記: 2021/04/24 17:47
②追記: 2021/04/24 22:31
③追記: 2021/04/27 21:13
④追記: 2024/04/27 13:56
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。