第 3 週 賢者の道を歩む
4 忙しい人の正体は怠け者
以前は怠る者であっても、
(それに気づき)怠らない人間になるならば、
その人はあたかも雲を離れた月のように
世を照らす。
(一七二) (第13章 世の中 より)
勝手にいきます。
今回はあまり書くことなさそう。
でも、やっぱり、ケチつけを一つ。
S さんの紹介していたお寺のお坊さんと長老の話。
何かあれを字面(じづら)だけ読んでいると、悟れてさえいれば、寺が汚れようが、荒れようが、問題ない、と読めなくもないんですよ。
やるべきことは、禅定(ぜんじょう)、そして、悟りを得ること。
しかし、寺が汚くても、まったく関係ないんですか?
寺が、さらに汚れが進んで、荒れても、まったく関係ないんですか?
おかしくないですか、これは。
ちょっと、ハッキリとは思い出せなくて申し訳ないんだけど、確か、地獄では、汚れた環境で、悪臭までも漂い、何とも言えず悪い環境とのこと。
その根拠は、おそらく、小さな悪い環境が積み重なり、それが誘因となって次第に大きくなってきやすいことがあると思う。
つまり、悪い環境は、そのまま放置しておくと悪化しやすいから、放置すべきではない、ということです。
数ヶ月ぐらい前まで(ちょっと記憶が定かじゃないので正確にはわかりません)、近所のスーパーで時々見かけた光景です。
入り口近くに置かれたゴミ箱に、燃えるゴミから、燃えないゴミまで分別せず、食べ物も食べ残しのまま、ペットボトルも何もかも、グチャグチャに混ざっているのを、何回も見た(ゴミ箱は、その後、疾病状況のためか蓋をされ、その後、撤去された)。
トイレにあった、ゴミ箱もそうだった。
ペットボトルや紙パック、食品トレイは、すぐ近くに回収箱があるのにお構い無し。そこに入れることはしない。メチャクチャ。
あれを見た人は、どう感じるだろうか?
例えば、紙パックなどを家に持ち帰り、洗って、再びスーパーに来た時に回収箱に入れるよりも、すぐに捨ててしまいたくなるのではないだろうか。
そうした光景が折り重なって、ああなったと思うんですよ。
汚れた環境は、さらにまた汚れを呼ぶ。
あるいは、呼びやすい。
だから、悟りを得たり、霊性のきわめて高い人が、寺を汚くしておくことは、ふさわしいとは思えないんですよ。
悟りを得る、というのは、私流に言わせてもらえば、肉体を持ちながらも、自分の本体は神(仏教なら仏)であると感得して、過去世から溜め込んできた真善美に悖る想いと行いの業想念を払拭して、神様(仏様)そのままの想いと行いを、あらわし得る、ということ。
これは、すなわち、涅槃(ねはん)に入ること。
そんな人が、悟りを得たからといって、汚れた周囲の環境を放置し続けるものでしょうか。
時間が空いて、手が空けば、掃除をできる人が掃除をして、きれいにしておくのが、あるべき姿なのではありませんか。
地獄では悪い周辺環境になるのとは反対に、神様の環境、神様により近い環境なら、美しく、秩序整ったものがふさわしいのではないですかね。
だったら、汚れても放置し続けるかのように、読み取れなくもない文ってどうなんですか?
かつて、法事などで行ったいくつかのお寺は皆立派で、きちんとして、掃除も行き届いていました。
悟りを得た人がいないかもしれない普通のお寺でさえ、きれいなんですよ。
悟りを得た人がいる寺が汚れていたら、おかしいし、ふさわしくないのではありませんか。
だから、細々とうるさいかもしれませんが、悟りを得た後も、手の空いた人、時間の空いた人が、掃除をしてできるだけきれいにしておくのは必須だ、と補足を加えてほしいように(個人的には)思いました。
何かあの解説を読んだだけでは、どうも釈然としない感じがしたので。
~~~~~
・禅定~ぜんじょう~①心の働きを静めて精神を集中すること。また、その心の状態。瞑想。
(用例)禅定に入る。
②霊山に登って修行すること。
ここでは、①の意。
・涅槃~ねはん~①すべての煩悩を滅却した悟りの境地。
②死ぬこと。特に釈迦の死。入滅。入寂。
ここでは、①の意。
・煩悩~ぼんのう~仏教語~心身を悩ます一切の妄念。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記: 2021/06/05 05:43 〜訂正内容〜
本文を訂正しました。