おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

436_想いと記号

前回( 435_まだまだ )、言霊について触れたけど、これは日本語特有のものなのか、そうでないのか、外国語ではどうなのか、と考えたら、何だか根が深い問題になりそうなので、到底、自分の手に追えそうもありません。

なので、ど素人の感想文だけを書かせて頂きます。

一つの概念や想いを、日本語なり他の言語であらわす、文字として、あるいは、音声としてあらわす訳ですね。

ある占星術師の方のお話によると、日本語の方が、母音を基底としている言語(英語などは子音を基底としているらしい)なので、自然と相通じやすい特別さを備えているから、動植物を含めた自然との調和や共生を考えると、重要な意味があるそうです。

ロシア人ユーチューバーの女性が、ある日本映画(小津安次郎監督 秋刀魚(さんま)の味)を見た時に、言葉はまったくわからないけど日本語が美しい音楽のように聞こえてとても幸せだったと言われていました(ユーチューブの日本語の魔法 日本語デビュー!美しい日本語は世界一難しい言語だ! AliciaFord さん に出ています)。

しかし、言語に限らず、西洋には数秘術があるから、やはり、これも数字という言葉とは異なる一種の記号に意味を見いだす、持たせることができることを意味していますね。

ということは、言語も数字も、人間が意思疎通のために作り出したものであり、意味を持たせた記号と言える訳です。

つまり、人間は意思疎通のために、言語や数字という記号を編み出した、と。

突き詰めて言うと、言語や数字という記号に、想いを宿らせている訳です。

人々の霊性がきわめて高く、かつ、悟りを開いたような状態ならば、他心通も当然に備えるから、何も言葉や数字の記号にあらわさなくても、想いだけで、つまり、想っただけて相手方に通じるから、あえて言葉や数字を使わなくても済みますよね。

しかし、古代はわかりませんが、それ以降の私達にはこれは望めませんし、到底、一般的とは言えないので、やはり、想いを伝える、そして、多くの人々で共有して、時代を引き継いで普遍化していくためにも、記号化は必然の成り行きだったのでしょうね。

まあ、昨今のカタカナ語の連発からすると、意味を込めやすい日本語(もちろん、常用されてきた漢字にも意味が十二分に付着しているものと思われる。とはいえ、そもそも、漢字それ自体にも元々意味があるのかもしれないし)で、あからさまにすると都合が悪い場合、あるいは意味が限定されてしまうことを恐れ、真新しいわけのわからない和製英語にもならないような言葉を無理矢理当てることによって、意味を薄めたり、流れを作ろう、商売に乗せようという意図が働いているんでしょうね。

話がそれました。

つまり、記号としての言語や数字は、(肉体)人間の想いを具現化した手段として用いられてきたもの、となりますね。

ただ、同じその記号としての言語や数字の中でも、想いを込めやすいものと、そうでないのものがある、となっている訳です。

これは、数秘術を見るとよくわかるんじゃないですか。

特定の数字にかなりの意味を持たせているし、何らかの(肉体)人間の願望達成のために、活用しようともしている。

で、特定の言葉や数字に、神様が意味をあらかじめ持たせたものなのか、それとも、肉体人間の想いが習慣化して折り重なったために想いが言葉や数字に意味が宿ってもたらされたものなのかが、次に問題になりますね。

これ、多分、両方じゃないのかなあ。

もちろん、神様のご意志は絶対的で、あらかじめ託されたものはあるのでしょうけど、後天的(?)に肉体人間の刻んだ歴史によって意味や力を持たされてきたものが、それなりに、多少はある、と。

例えば、時には当たってしまう迷信とかは、おそらく、肉体人間の想いが習慣化して折り重なったために、一つの力を得ているのかも知れないと。

だから、方位方角や、いろいろなものが、帰納的に構築されてきたんじゃないですかね。

そして、集積された想いの壁、特にあまり好ましくない想いの壁に対する対処法として考えられるのは、これをどう破るか、なんですけど、やっぱり、世界平和の祈りをするしか、想いを破る、あるいは中和して、緩和させることぐらいしか、やりようがないんじゃないのかなあ。

逆に言うと、物でも何でも、肉体人間の方から良い想いを投げかける、良い(想いのこもった)言葉をかけると、自らの周辺も良くなっていくのかもしれないですよね。

妙好人の人達ならば、常に、南無阿弥陀仏の祈り言葉で仏様(神様)と一緒だから、紆余曲折を経ながらも、周囲が光明化されていくというように(世界平和の祈りも同様です)。

素人的には、こんな風に考えます。

失礼致しました。