おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

438_想いと記号2

前々回( 436_想いと記号 )、言葉や数字が、(肉体を含めた)人間の意思疎通の手段として用いられるものであることに触れました。

言葉や数字には、意思が伝達できるように概念が込めれている訳ですよね。

つまり、突き詰めると人間のその概念に対する理解の有り様という、人間の想いが込められていることになります。

そこで、これらの意思疎通の道具として用いられる言葉や数字が、あらかじめ神様からそのご意思を託されているものか、または、それほど神様のご意思が託されていなくても、(肉体を含めた)人間の慣用によって想いが集積してこもり、それが力を持つことで、何らかの作用をもたらす力を得たもの(迷信など)かの 2 つに大別しましたが、現在進行形で言葉や数字が発する時はどうなのかに、触れなかったので、補足します。

上記の 2 つの場合のように、あらかじめ意味づけられた力が込められていれば、もちろん、その力は発揮されるのでしょう。

その場合でも、新たに想いを描いた新語でも、それなりの力があるのか、が問題になりますね。

これは、力の強弱には著しい差異があるとは言え、それなりに力がある、作用がある、と考えられます。

やはり、肉体人間の元は、本体は神様の分け命(分霊)ですから、その言葉には、新語でも力がある、または、既存の言葉でも神様のご意志や習慣に加えて力が加わると考えられます。

ただし、これはその肉体人間の浄(きよ)まり具合に左右されると考えられます。

その肉体人間が浄まっていて、悟りを得ていたような場合には、肉体身を持ちながら、神様のみ心である、想いや行いをあらわす、つまり、真善美に悖らない、神様にふさわしい想いと行いを、自由無碍(じゆうむげ)、自由自在にあらわせる、行えるものと思われます。

ただ、これは現代ではまず望めないので、理想的な形ではあります。

悟りを得ていないのに、それも、ほど遠いような場合でも、それなりの力がある場合には、幽界の生物の応援のような何らかの外的な力が加担したものくらいでしょうか。

そんな風に考えられます。

以上、前々回の補足です。

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・無碍~むげ~さえぎるもののないこと。じゃまなものや障害のないこと。また、そのさま。
(用例)融通無碍。

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①追記: 2021/07/18 22:08
②追記: 2021/07/18 23:03
③追記: 2021/07/19 00:57
④追記: 2021/07/19 01:13
⑤追記: 2021/07/19 05:39
⑥追記: 2021/07/19 14:14
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題および内容を加筆・訂正しました。