おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

458_やっぱり3

今まで何回も書いてきたことですが、また書きます。

私達肉体人間は、自分で生きようとして生きているのではありません。

何らかの摩訶不思議な力によって生かされていると考えられるのです。

心臓はなぜ規則的に鼓動を刻むことができるのでしょうか。

肺臓をはじめとする身体の諸器官は、なぜ呼吸をするように動き続けるのでしょうか。

その他の身体の各器官もなぜ淀みなく機能し続けているのでしょうか。

しかも、こうした五臓六腑をはじめとする身体の各器官は、起きている時だけでなく、寝ている時にまで、たゆまなく働き続けていてくれる。

これはなぜなのでしょうか。

少なくとも、私達が意識的に身体の各器官に逐次命令を下して、それらの各器官が働き続けていてくれるのでないことだけは確かです。

心臓よ、鼓動を刻めといちいち命令して動かしている訳ではないように。

しかも、もっと大元をたどると、そもそも、私達肉体人間が生まれてきたことは、生まれた肉体人間からすれば、無償です。

タダですよね。

生まれた当事者は、何の対価も払わず、肉体と命をもらっている。

対価を払って生まれてきた訳ではないのです。

両親のお陰とそれに作用する不思議な生命の力によって生み出されてきたとしか、考えることができません。

そして、生命活動をしていくのに不可欠な空気や水をはじめとするあらゆる環境は、私達肉体人間が生まれる前からあらかじめ用意されていた、与えられているものなのです。

では、肉体人間の肉体を有機的な生命体たらしめているもの、幼少期から次第に肉体を発達させて成長させていく力、こうしたものは、どこから来ているのでしょうか。

やっぱり、どう考えても、神様のお力、そして、み業としか、考えようがないんですよ。

こうして、私達肉体人間が、生きていくために必要なあらゆる環境と(成長を含めた)命をお与えになっている。

逆に言うと、神様のお与えになった命なのだから、いつ引き揚げられても(?)文句は言えない、ということにもなります。

だって、当事者からすれば、元々、肉体と命をタダでもらっている(神様から与えられている)のだから。

おそらく、肉体人間の寿命は神様の方であらかじめかなりの程度、定めてあるのではないか、と考えられます。

従って、その命を自分の都合で勝手に断つ自殺は、かなりまずいと考えられます。

もちろん、こうして与えられている諸条件を元に、あとは各自で努力してこの世をわたっていくことにはなるでしょう。

しかし、何から何まで、あらゆるものを神様から与えられている、特にこの肉体も、この肉体人間を生かす、摩訶不思議な命も力もすべて与えられている以上、この命を大事にして、生きていくのが、ご恩返しというか、あるべき姿、ということになります。

神様から与えられた命、神様の分霊(わけみたま)を大事にするということは、すなわち、神様のみ心に沿った生き方、真善美に悖らない、愛に満ちた生き方をすべき、神様のお命を分け与えられた者として、ということになってきます。

従って、前々回( 456_やっぱり2 )に書いたように、自身の肉体の五感にまつわる欲望だけを最大化させることばかりに血道をあげている(金儲け、権勢欲追求、放蕩三昧、色狂いなど)のは、道を外している、となってしまいます。

自分の命も、ありとあらゆる環境も、すべて神様がお与えになったもの。

何一つ自分のものはない。

すべて神様のもの。

ならば、これに沿って生きていくのが、合理的であるし、望ましい、と考えられます。

逆に、神様のみ心にそぐわない、真善美に悖る想いで生きてしまうと、その想いと行いの業想念は、本来はあってはならないものとなり、肉体人間の生涯を通して償うという形で清算されなければならない、となります。

ただし、今生内という短い期間ではなく、輪廻転生という形で、過去世の記憶を消されて、世を隔てて償う、来世以降に必ず清算せざるを得なくなるという形で。

で、こうしたことを意識しつつ、少しずつでも、霊性の開発をして、日々の想いと行いを良い方向に直していくのが、肉体人間として望ましいあり方だ、ということになります。

そうして、あまたの過去世から溜まりに溜まっている真善美に悖る想いと行いの業想念を、とにかく少しずつでも減らして、いずれは誰しもが輪廻転生を卒業していくことになっているのではないでしょうか。

そのためには、お釈迦さんの時代のような厳しい自力修行を伴う難行道は、現代ではどうしても、現実味がありません。

世捨て人にならなければならないからです。

なので。

現実味のある修行の仕方、すなわち、少しずつ霊性を開発していく、易行道の世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願い致します。

以上の内容は、あくまでも、神様が愛であり、あらゆるものをおつくりになった絶対者だということを前提にしています。

だいぶ前に書いたのですが、この世の中が、争いや不幸や災難に満ちていて、お釈迦さんの言うようにこの世が苦になっていて、なかなか良くならないことから、神様の捉え方は、これ以外に 2 つ考えられます。

1 つは、あらゆるものをおつくりになった絶対者ではあるけれど、それを取りまとめてよくしていく力のないダメダメな中途半端な存在である可能性と、2 つ目は、あらゆるものをおつくりになった絶対者ではあるけれど、わざわざ肉体人間を苦しめて喜ぶ意地悪なサディスト的な存在である可能性が、考えられなくもないことになります。

これらの中から神様をどうとらえるかは、読まれた方次第ですけれど、神様は愛であり、あらゆるものをおつくりになられた絶対者と私は考えています。

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①追記: 2021/08/08 15:38
②追記: 2021/08/09 00:00
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。