おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

460_やっぱり4

前々回( 458_やっぱり3 )の続きです。

人間とは。

肉体人間としての自分の命から、能力から、環境から何から何まで、俺様のものだ、俺が、俺が、と主張するんでしょうね、唯物論の人ならば。

自分の生命活動、すなわち、覚醒時(起きている)から睡眠時(寝ている時)まで五臓六腑をはじめとする身体のあらゆる器官が働き続けていてくれること、そして、創造をして、思考をして、実行に移せる肉体人間ならではの動物などとは明確に一線を画した特別な能力があること、こうしたものは、もうあらかじめ自分の支配下にある所有物で、あるのが当たり前、規定値だと思っているのでしょう。

全部俺のものだ、と。

受精卵から、赤ちゃんから、次第に成長させていく力も、何もかもそなわっているんだから、俺のものだ、誰の世話になっているのではない、とも思っているのでしょう。

これがすべて神様から与えられている不思議な命、そしてその命にもとづく力そのもので、信じられないほど奇跡的な頂きものである、とは考えないのでしょうね。

だから、仏教の人身得難し、などの話も、まったく信じる気になどなれずに、せいぜい、単なる絵空事のおとぎ話程度にしかとらえていないでしょう。

すでにそなわっているものは、すべて俺様のものだ、他に誰がいると言うんだ。

たとえ、一から自分で肉体人間を作り出せなくても、生命の不思議はわからなくても、そんなことは関係ない。

ただ、こうして生きているだけなのだ。

だから、誰にもらった命だの、生かされているだの、と考える必要などない。

現に、今、地球上、たくさんの人が、そんなことは考えずに、好き勝手に生きているではないか。

そんなに、深く肉体人間の本質を省察する必要など、どこにあるんだ、好き勝手に生きて何が悪い、と考えているかもしれませんね。

すでにそなわっているものは俺のもの、人間=肉体人間だ、神だの、霊だのというものなどあるものか。

そもそも、こうしたことを唯物論者の誰に対しても、納得できる証明すらできていないではないか。

だから、ただこの肉体にまつわる欲望だけを追い求めることが、自然な成り行きで、必要とあらば、他人を排除し、潰したって構わないはずだ・・・。

ありきたりに他人を観察したところで、終局的にはみんな自分のために生きている。

それ以外の何であるというのだ。

・・・。

肉体人間としての自分の命も周りの環境も何もかも、頂いているというありがたさがわからないと、こうした考え方になるのではないですかね?

すべては、神様から与えられているものかどうかなんてわからないし、どうでもいいんだ、ただこうして生きている。

みんなもそうだ。

不幸や災難の多いこの世の有り様からすれば、そうに違いない。

だから、神様から与えられている命を大事に生かして生きていくだの、恩返しだの、といった殊勝な気持ちにはならず、下手をすると感謝のカケラもなくなる、可能性がありますね。

さて。

どうすれば、いいんですかねえ。

健康を害するなどして、こうしたあらかじめ与えられたものが失われる、あるいは次第に失われることにならなければ、恩義や感謝に目覚めることはないのかな?

でも、やっぱり、守護霊さんと守護神さんがついている以上、この専属に守っている肉体人間を、真の神様の命を生かす生き方ができるようにと導くことになるはずで、何かしらの手を打たれると思えるんですけど。

あるいは、こうした人間=肉体人間の身勝手な生き方は、いずれは(原則として)輪廻転生を通した因縁因果の法則により、破綻する時が来るから、その時までお待ちになるか、または、導く時期を見計らっておられるのでしょうか。

よくわからないんですけど。

まあ、確実に言えることは、神様をはじめとした、こうしたとらえ方のいかんで、輪廻転生の上がりまでの過程が大幅に違ってくるということですね。

そして、想いの世界の幽界、霊界をはじめとするこの世までの世界を浄めることが遅れるので、地上天国化までの時間が変わってくるということでしょうね。

神様への恩返しと感謝。

するか、しないか。

これが大きな鍵ですね。

まあ、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行を知ることができた者としては、ただひたすら祈るしかありませんけど。

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追記: 2021/08/10 07:00 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。