初期仏教の復習の途中で、ちょっと脇道にそれて申し訳ないのだが、非モテコミットについて気づいたことがあるので補足する。
あまりにも、当たり前のことだと考えていたので、あえて書かなかったのだが、念のため。
非モテコミットは、男性が現状の彼女のような存在の女性を繋ぎ止めようと躍起になり、過度に尽くしすぎになるような話だと記憶している。
ここでは、そもそも、過度に尽くし過ぎること自体が、対人の距離感をとるやり方としては間違っている。
この世に生を受けた男女が、組をなしてともに人生を歩んでいくならば、中でも特に結婚ならば、お互いにつくし合い、協力し合って、最終的な神様の世界をつくるための、その全体の部分を構成する一過程としての人生を歩んでいくべきということになる。
そこでは、お互いに尽くし合い、協力し合うことはあっても、過剰にやり過ぎることは、明らかに不均衡だし、不自然だ。
やり過ぎることによって、相方に心理的な負担を強いたりすることになったりしては、真善美に悖る業想念を生じることになってしまい、かえって不和を生じることにもなりかねない。
これでは、尽くし合い、協力し合う、そもそもの前提が崩れてしまい、本末転倒となってしまう。
だから、尽くし合い、協力し合うのはいいのだが、過度にかたよらないように、どんなに親しくともそれなりの距離感を保つことが必要になってくる。
美輪明宏さんの言う、腹六分目の付き合い、親しき仲にも礼儀ありみたいなものです。
親だから、子供だから、兄弟姉妹だから、夫婦だから、親戚だから、親友だからと、ベタベタし過ぎてしまうと、いずれは様々な軋轢を生じることになってくる。
なぜならば、私達肉体人間のほとんどは、まだまだ霊性が十分に開発されておらず、悟りにはほど遠いために、神様のみ心に沿った適度で自然な対人の距離感を保つことができないからです。
それに、そもそも、こうした近しい人間関係にこの世で生まれ合わせるということ自体が、過去世からの様々な悪しき因縁を解消するための組み合わせである可能性がきわめて高い。
逃れられない人間関係の中に置かれて、私達は様々な修行をさせられる訳です。
そして、その軋轢を生じる根底には、肉体人間としての本質が神様の分け命であるところから、元々自由自在を求めて縛られることを嫌う側面もある(自由自在とは言っても、肉体人間の五欲にもとづく身勝手な自由自在ではなく、あくまでも神様のみ心に沿う自由自在のこと)。
従って、非モテコミットとして尽くすにしても、やはり、そこには適度な距離感を保っている場合を私は想定していた(まあ、こうした距離感を保っていないやり過ぎの場合でも、互いの関係に何らかの改善のための提案すらしない、お相手の男性を切り捨てることしかできないような女性は、失礼ながら、霊性が高くないと言わざるを得ませんね。互いに協力していくために、悪いところは直して関係をよい方向に発展させるための前向きな努力を何一つしないのだから)。
その適度な距離感を保った尽くしでさえも、袖にする、男としてつまらない存在としてみなすような女性は、失礼ながら霊性がお世辞にも高いとは言えず、唯物論的に言えば、かかわらない方が得策となる女性だ、ということです。
こうした女性にいくらモテたところで、そんなに価値がありますか?
たとえ、たった一人の女性でも、この厳しく不条理なこの世を、紆余曲折を経ても、悲喜こもごもを味わいながら、確かな信頼関係を築いて、ともに歩んでいくほうがよくはないですか?
一時的に遊び相手の複数の女性からちやほやされても、いずれ人生を振り返った時に、むなしくはなりませんか?
そして、残るものは何ですか?
そんなこと知ったことか、俺は遊び尽くすんだ、やり尽くすんだ、という人には、あまり言うことはないですね。
ただ、もしも、人生につまずいたり、行き詰まったり、むなしさを覚えることがあった時には、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行があることを、是非とも記憶の片隅にとどめておいて下さい。
よろしくお願い致します。
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①追記: 2021/08/29 05:01
②追記: 2021/08/29 13:00
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。