おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

456_やっぱり2

ものは角度によっていろんな見方ができます。

孤独(*)がさびしいという人もいるし、孤独が楽だという人もいる。

ただ、私が感じるのは、孤独をあえて選んだならば他者の批判はしない方がいいということです。

孤独が最高!ならば、わざわざこれを誇示する必要もなければ、他者批判をする必要もない。

ただ、孤独をひたすら楽しみ、きわめればいいだけです。

何事にも夢中になっていれば、他のことには関心が向かなくなります。

横目で人様のことが気にかかり、批判するなりして、執着するというのは、やはり、孤独をきわめていない、楽しんでいない、と思えてしまうのです。

そのように解釈せざるを得ない。

つまり、その言動の裏読みができてしまうということです。

人様が傍(かたわ)らにいないとさびしい・・・。

肉体人間は、誰しもが孤独です。

生まれてくる時も裸で一人、亡くなる時も裸に近く一人です。

多産のように同時に生まれ、心中のように同時に死ぬことがあっても、肉体は別個なので、こうした場合でも、厳密には完全に一人です。

この世で普通に生きて、恒久不変に若さを保ちたくても、非常に残念ながら、年をとって肉体は次第に衰えていきます。

お釈迦さんの説法にもあったように。

この世に肉体人間として生まれた以上、必ずこの世で肉体人間として死ななければならない。

家族がいるから、兄弟がいるから、連れ合い(配偶者のこと。夫なら妻、妻なら夫のこと)がいるから、子供がいるから、何もかも楽しい、嬉(うれ)しいという良い縁(=過去世からの因縁)ばかりとは限らない。

むしろ、逃げられない深い絆を得ることで、様々な軋轢(あつれき)を生じながら、魂を磨(みが)き合う者同士として、生まれ合わせる確率の方が相当に高いのではないですか。

それでも、そんな過去世(前世、前々世、前々々世・・・の総称)からの今生(今回の人生)での巡り合わせであっても、やはり、それなりの縁があり、今生でかかわり合っている訳です。

病気をはじめ、辛いことをいろいろと経験するとわかるようになってくると思いますが、私達が普段何気なく当たり前に享受している、健康、環境などなどは、実はありがたい、恵まれたものである、とわかってくるんです。

普段、当たり前で、まったく気にもとめなかったことが、失われてみるといかにありがたいことだったのかが、わかるようになるんですよ。

逆に言うと、あまりにも恵まれ過ぎていると、現状のありがたみがまったくわからなくなるどころか、思い上がって、高慢、傲慢になるおそれさえ出てきてしまうんです。

高慢や傲慢になってしまうと、かなりの不幸などで、精神的にペチャンコにされる経験をしないと、なかなか、ありがたみを感じることができない体質(?)になってしまう恐れがあります。

しかも、天罰のように感じられる(?)今生でのやりたい放題の報いは、その大半が輪廻転生を通してという世を隔てたものであるために、余計に今生で反省する機会は少ない。

今生で反省する機会があるとすれば、かなりの不幸や災難に遭(あ)うか、寿命が尽きる時くらいじゃないですか。

以前に仏教の話で、人身得難しで、この世に肉体人間として生を受けることは相当に希少であり、ありがたい話に触れたことがあります。

その上に、この地球上、何十億人と人がいるなかで、同時代に生まれ合わせ、巡り合わせたことは、さらに希少なこととなりますね。

いがみ合い、憎しみ合い、果ては傷つけ合う厳しい因縁因果の下に、この世で出会う場合も多々あるとは思いますが、せっかく超のつく類い稀(たぐいまれ)な巡り合わせで出会ったのだから、せめて少しでも、気持ちよく、楽しく過ごせるように、お互いに尊重して、尽くし合うように、試みて行くことも、価値があると思います。

まあ、そのためには、やっぱり、世界平和の祈りとともに守護の神霊さんへの感謝行をして、何とか少しでも過去世からの因縁因果を好転させることが、必要になると思います。

そもそも、なぜ私達肉体人間が、この世に遣(つか)わされたのか。そう考えると調和と安穏(あんのん)に満ちた幸せな世界を最終的にこの世の地球上に実現するためではないか、と考えられるのですよ。

つまり、神様のみ心をこの世にあらわすために、地球さんも、人類も、お互いに調和して繁栄できるようになるように、と。

肉体人間の五感にまつわる欲望を最大化させるためだけ、承認欲求を満たすためだけ、虚栄心を満たすためだけ、ごく一部の人達だけが支配欲の完結を希求するためだけ、金儲けをして贅沢三昧をするためだけ、遊興(ゆうきょう)三昧に耽(ふけ)るためだけ、色事遊びに耽るためだけ、などなどの生き方を繰り返してばかりいては、到底、輪廻転生から抜け出すことはできないし、仏教で言うように、この世は苦だという状態を抜け出すことはできません。

この世は苦だということを霊性的に見れば、この世は過去世からの因縁によってかなりの程度、自分の身の回りをはじめ、あらゆる環境が規定されてしまい、思うがままにならない。

過去世からの因縁を清算するために、病気になりたくなくても病気になり、争いたくなくても争い、貧乏になりたくなくても貧乏になり、苦労をしたくなくても苦労を強いられる場合がある。

加えて、永遠の命である神性(仏性)とは異なり、肉体人間としての命は有限で、しかも時間とともに寿命に向かって、衰えていかざるを得なくなっている。

嬉しい、楽しい、幸せという期間はそんなに長く続かないことの方が多い。

もっと言ってしまうと、人間=肉体人間観に縛られ、自分中心の唯物論の考え方をしている限り、不幸などへの不安と恐怖をこの世の世界から払拭(ふっしょく)することができない。

消去法になるのかもしれないけれど、やっぱり、私達肉体人間が、神様の分霊(わけみたま)を本体とする神様の子供として、肉体をまといながらも、そのあるべき姿をあらわさないと、安心立命はできないし、神様の世界はこの世にあらわせないと考えられるのですよ。

で、仮にこのように理想的な世界が実現した暁(あかつき)には、孤独も何もなくなる、と思います。

お互いに愛し合い、慈しみ合い、尊重し合うようになれば、必要な時には自然に集まって協力するようになるだろうし、対人関係でわざわざ、距離を置く必要もなくなるはずです。

美輪明宏さんのおっしゃっるような腹六分目のような形で、人との距離を保たないと、人間関係がうまくいかないのは、今のこの世が、いまだに霊性がまだまだ開発されていない、真善美に悖る(もとる。反する)想いと行いの業想念に満ちた肉体人間の世界の段階にあるからです。

みんなの霊性が開発し尽くされれば、肉体の五感にもとづく様々な執着もなくなるだろうし、お互いの神様のみ心に沿った自由自在も干渉し合わないようになるはずです。

孤独も何もない。みんな神様の分け命を頂いている兄弟姉妹、同胞になるからです。

唯物論で考えても、人間は生まれる時も亡くなる時も一人ではあるけれども、たくさんの人々とかかわり、そのお陰さまを持たないと生きてはいかれない。

孤独ではあっても、否応なしに、誰かしらの世話にならずには生きてはいかれないのです。

やはり、自分のこの世での利益を最大化させるためだけ、自分のためだけに生きるかたよった生き方をするのではなく、世話になった人達への恩返しもかねて、人様に尽くす生き方も考えざるを得なくなります。

なので。

輪廻転生を通した霊性の開発のためにも、祈りと感謝行のご一考をお願い致します。

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(*)これも、個人的な独断と偏見になるのですが。

孤独を字引で引くと以下のように出ている。

・孤独~こどく~(孤児と独り者の意から)身寄りや心の通(かよ)う人もなく、独りぼっちであること。また、そのさま。
(用例)天涯孤独。孤独な人。

昨今、よく言われる(?)、「ぼっち」という表現はあまりいい感じがしません。

孤独という言葉だけで済むところを、わざわざ「ぼっち」と言い換えることで、意味を強めている気がするからです。

上記に書いたように孤独を楽しんでいるのなら、わざわざこれを強調する必要はないはずです。

余計な言い換えをすることによって、その意味合いを強調する嫌いがあるような気がしてしまうんですよ。

そして、わざわざ「ぼっち」と表現することで、あの人は一人なんだ、友達もなく、伴侶(パートナー)もいない、さびしい人なんだ、という見下ろしたきらいを感じてしまうのですよ。

こんな余計な想いを誘発させるくらいなら、孤独という言葉だけを使えばいい。

あの人は孤独だな、と感じても「孤独」という言葉の響きがきついなと感じれば、言わなければいい。

言うのは控えるべきです。

それをわざわざ言葉に出して言うのは、無意識に自分や自分の身の回りと比較しての序列づけ(今流行りの言い方ならマウンティング)をしてしまっているからではないのか。

と考えられてしまうのですよ。

しかし、真善美に悖る想いは、少しでも余分に起こさせるべきではありません。

なぜならば、輪廻転生を通して、その償いの苦労をするはめになるからです。

どうしても言いたいか、自分の胸だけにおさめるのが難しいなら、祈りと感謝行に昇華させる。

その方がわずかながらでも世の中全体の因縁因果にも悪い影響を及ぼさずに済むし、良い影響があるからです。

以上、個人的な独断と偏見でした。

失礼致しました。

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追記: 2021/08/06 18:45 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。