第 2 章 人間関係に気疲れする
33.張りぼての人たち
そこで、尊師(*)はこのことを知って、その時次の詩を唱えた。
「端麗な容貌によっても、いかなる人(の心)も識(し)り得ない。
動作を見ることによっても、信用するな。
この世では、よく身を慎んでいるように見せかけて、(その実は)慎しみのない人々が、この世を闊歩している。
紛い物であり、泥土で作られた耳輪のようなものもある。
金のメッキがしてある半マーシャ(重量の名)の銅のように、ある人々はつき従う仲間を連れて歩き回っているが、内心は不浄で、外側だけ立派なのである」と。
(サンユッタ・ニカーヤ より)
佐々木さんによると、これは、僧侶のなりや振る舞いをしながら、その実、仏道修行をまったく知らない人々を、王様が拝んでいる光景を見て、お釈迦さんが言った言葉なのだそうだ。
内実が大事だというお話。
でも、ものがある現代ならば、経済的な事情が許す限り、他人に不快感を与えない程度に、清潔さを保つのは、一種の礼儀とも言えるだろう。
従って、相手に不快感を与えないのも、礼儀に入ると言える。
金と時間がないなら仕方がないけれど、できることならやっておくべきだ、となるだろう。
形から入るのは、本来なら内実が整ってそれに伴い自然に外面もこれにつられるように出来上がるのが、理想なんだろうけどね。
詐欺師なら、外面から入り、ありとあらゆる周辺状況を固めながら、用意周到にして狡猾に騙しに入るので、見抜くのは難しいかもしれない。
やはり、悪い因縁を避ける、あるいは、避けられないまでも、少しでも軽く済ませるためには、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすることが望ましい。
まあ、つつがなく穏便に生きるためには、こうして、わざわざ、対面する相手に注意を払い、その内面にまで気をつけなければならない。
お釈迦さんが登場して、2,500 年たっても、残念なことに、いまだに人間不信を浄め去ることができていない。
やっぱり、霊性の開発は必須。
この世での過去世の因縁の時を経て消えてゆく姿を、少しでも減らす、そして、穏便に済ます。
そのためには、祈りと感謝行が必要だ、ということです。
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(*)お釈迦さんのこと。
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追記: 2021/09/09 23:57 〜訂正内容〜
表題を訂正しました。