第 4 章 これから先がどうなるか不安
65.力を尽くして生きる
誰が明日に死のあるのを知ろう。
ただ今日まさに為(な)すべきことを熱心になせ。
(マッジマ・ニカーヤ 第三巻一八七ページ)
保留中にしておいた項目を更新します。
失礼致しました。
この経文は、以前に中村さんの時に扱っておりました。
以下に、過去の文章を引用します(改変あり)。
他にもいくつかの内容を含みますが、この際なので、これもそのまま引用します。
いろいろと勝手をしますが、ご了承願います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
209_原仏12ー22
208_原仏12ー21 の続きです。
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について
の
四 幸福について の続きになります。
諸々の教え、と題して(小見出しをつけて)7つほど紹介されていますが、番号からすると、順不同で、1つは別のところから引いてきています。
このような取り合わせになっていますが、中村さんの本通りの順に見ていきます。
ーーーーーーーーーー お断り ーーーーーーーーーー
はじめに、お断りがあります。
今まで、便宜上、本でなされている以下は、
本の内容と説明を(A)
私の文を(B)
と表記することにします。
あらかじめ、ご了承をお願い致します。
また、(B)を書く便宜上、経典の各引用部に、①~⑦の番号をつけます。この点もご了承願います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(A)その他、具体的な教えが色々と説かれています。
①死ぬよりも前に、
妄執を離れ、
過去にこだわることなく、
現在においてもくよくよ思いめぐらすことがないならば、
かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
(八四九)
(A)くだらぬ煩(わずら)いごとにくよくよするな、というのです。
似たような言葉として、他に出ているものですが、次のようなものもあります。→②へ
(B)死ぬよりも前に、執着をはなれ、過去にこだわらず、現在にもくよくよしないというのは、すなわち、悟りを得たのと同義ではありませんか?
そうなれば、当然、未来を思いわずらうはずもないはずですよ。
悟りを得れば、輪廻転生を通した永遠の生命を感得した、獲得したのですから、輪廻転生からは卒業になるはずです。
もう、特別な使命がなければ、この世に降りてくることはない。
そうなれば、当然、未来を思いわずらうはずもないじゃないのですか?
悟りを得ていなければ、執着がやめられず、程度の差こそあれ、どうしたって過去を悔やむし、現在もくよくよします。当然、未来も不安視したりと心配します。
この経典の文言だけを読んでいる限り、悟りを得られない人のことを言っているのか、悟りを得た人のことを言っているのか、はっきりしません。
悟りを得られない人のことを言っているならば、ちょっと変な感じがするんですけど。
②過去を追わざれ。
未来を願わざれ。
およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。
また未来はまだ到達していない。
そうしてただ現在のことがらを、各々の処(ところ)においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなかれ。
誰が明日に死のあるのを知ろう。
ただ今日まさに為(な)すべきことを熱心になせ。
(マッジマ・ニカーヤ 第三巻一八七ページ)
(A)我々は過去にかかずらわってくよくよしてはならぬ。
また未来を案じて心配してもしょうがない。
ただ現在のことに専念すればよい、というのです。
(B)これも、上記①と同じことが言えます。
ああしろ、こうしろと、過去、現在、未来のあるべき形を云々するのは、すなわち、悟りを得ていないのと違いますか?
明日のことや寿命はわかる人はおそらくいますよ。明日のことや寿命がわからないのは、すなわち、悟りを得ていないからではないですか?
ただ、真に悟りを得た人、神通力のある人は、まわりに悪影響を及ぼさないように、あらかじめ、自分や人様の寿命がわかっていても黙っているだけですよ。
やたらに、そんなことを口外するような、軽はずみなことはしない。
それが、高潔な人格者のあるべき態度のはずです。
ちなみに、神通力には、以下の6つが代表的なものが六神通としてあるそうです。(露の団姫(つゆのまるこ)著 団姫(まるこ)流 お釈迦さま物語 春秋社より)
1 神足通(じんそくつう)
2 天眼通(てんげんつう)
3 天耳通(てんにつう)
4 他心通(たしんつう)
5 宿命通(しゅくみょうつう)
6 漏尽通(ろじんつう)
この中で、特に宿命通、天眼通、漏尽通の3つは、三明といわれるそうです。
イシダーシーさんが、7日で得たという、三種の明知のことですね、これは。
③足りないものは音をたてるが、
満ち足りたものは全く静かである。
愚者は半ば水を盛った水瓶(みずがめ)のごとくであり、
賢者は水の満ちた池のごとくである。
(七二一)
(A)ぶつぶつ不平を言いなさるな、という訳です。
(B)確かに、業想念まみれの人は、執着が多く、渇望も多く、落ち着かないし、せわしないし、やかましいことが多い。
それに比べると、やはり、悟りを得た、あるいは、悟りを得ないまでも、かなりの人格者は、静かだと想像できます。
そのことを言っているのではないですかね。
(A)どういうことをしたら人間は破滅するかということも、興味深く説いています。
④おびただしい富あり、
黄金あり、
食物ある人が、
ひとりおいしいものを食べるならば、
これは破滅への門である。
(一〇二)
(B)自分だけで、財産と金を独り占めして、贅沢三昧するのは、破滅への道ということですかね。
⑤女に溺れ、
酒にひたり、
賭博(とばく)に耽(ふけ)り、
得(う)るにしたがって得(え)たものをその度(たび)ごとに失う人がいる、
ー これは破滅への門である。
(一〇六)
(B)女性の体をむさぼり求めてばかりいて、浴びるように酒をのみ、博打に浮き身をやつす。浪費癖がやめられない。
これらが、破滅への道ということなのでしょうか。
⑥盛りを過ぎた男が、ティンバルという果実のように盛り上がった乳房のある若い女を誘(ひ)き入れて、かの女への嫉妬から夜も眠られない
ー これは破滅への門である。
(ーー〇)
(B)これは、ちょっと文の意味がわからないんですけど。若い女を引き入れて、嫉妬する?どういう意味なのでしょうか?引き入れたら、別に嫉妬しないでしょう。遊ぶだけなんだから。わけがわかりません。(注)
ただ、経典にしては、こうしたやけに生々しい描写があるのは意外でした。
⑦世の中には、このような破滅のあることを考察して、賢者、聖者は真理を見て、幸福な世界に達する。
(ーー五)
(A)真理を見るというのは、人間としての理法に頼ることです。
真理とは、インドの言葉では「ダルマ」といい、漢訳仏典では「法」と訳しています。
人間の生活状態はいつも時と場所の異なるに従って異なっているが、それらには一貫した道(理法)があるというのです。
その理法を観ずるということはまた真実の自己の姿を見ることでもあります。
自己の姿を見つめて、人間の真実の理法に従って活動するところに、人間の真の幸福が現れるというのが釈尊の切なる願いだったのです。
このように、我々の打つ言葉が、この聖典の中には色々と述べられているのです。
(B)釈迦が宮中を出て生老病死を見たことになぞらえているんですかね。よくわかりませんけど。
~~~~~
(注)通読した時には、どうでもいいや、と読み飛ばしたからよかったんですけどね。
本当は、わけがわからなくはないんです。
ある推定をすれば読み取れますから。
それは・・・。
若い女を引き入れたが、盛りを過ぎた男(高齢者?)のために性的能力が減退して、相手をすることができない。
そこで、満足できなくなった若い女は、性的能力の高い若い男を結果として引き入れた。
盛りを過ぎた男は、どうすることもできない。
ただ、若い男女の行為を横目に嫉妬するしかない。
だいたい、こんな感じでしょう。
しかし、こんな下世話な想像を働かせる内容は、経典としては・・・。
だから、あの書き方だけでは、わからないんですよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
210_原仏12ー23
209_原仏12ー22 の続きです。
なお、便宜上、本でなされている以下は、
本の内容と説明を(A)
私の文を(B)
と表記することにします。
あらかじめ、ご了承をお願い致します。
②について補足します。
②過去を追わざれ。
未来を願わざれ。
およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。
また未来はまだ到達していない。
そうしてただ現在のことがらを、各々の処(ところ)においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなかれ。
誰が明日に死のあるのを知ろう。
ただ今日まさに為(な)すべきことを熱心になせ。
(マッジマ・ニカーヤ 第三巻一八七ページ)
(A)我々は過去にかかずらわってくよくよしてはならぬ。
また未来を案じて心配してもしょうがない。ただ現在のことに専念すればよい、というのです。
(B)これも、上記①と同じことが言えます。
ああしろ、こうしろと、過去、現在、未来のあるべき形を云々するのは、すなわち、悟りを得ていないのと違いますか?
明日のことや寿命はわかる人はおそらくいますよ。明日のことや寿命がわからないのは、すなわち、悟りを得ていないからではないですか?
ただ、真に悟りを得た人、神通力のある人は、まわりに悪影響を及ぼさないように、あらかじめ、自分や人様の寿命がわかっていても黙っているだけですよ。
やたらに、そんなことを口外するような、軽はずみなことはしない。
それが、高潔な人格者のあるべき態度のはずです。
以下、略。
五井先生(昭和の宗教家、五井昌久さん)は、一般的に、人事を尽くして天命を待つ(人としてできる限りのことをして結果は天(神様のことですね)の意思に任せるということ)、ではなくて、天命を信じて人事を尽くせ、としています。
概要は以下のようだったと思います。
この世に生まれた、ということは、神様の力が働いて、命を分け与えられて、生まれてくる。
神様の分霊の働きかけがなければ、私達の肉体は、生命活動を維持できないのだから。
生んで下さった、ということは、何らかの期待するお役目があるはずだ。
だからこそ、生命を与えて下さった。
ならば、それを信じて、一生懸命生きていきましょう、となる訳です。
だから、寿命の尽きるまで、このような心がけで、よきに生きていきましょう、と。
確かに、特別な能力のある人以外は、寿命がわからない、つまり、いつ命が尽きるかわからないのだから、精一杯よきに生きていきましょう、と。
この意味合いは、結論にたどり着く過程は違いますが、結果的に、マッジマ・ニカーヤの上記の最下部の内容と、同様になりますね。
以上で、
Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
第一章 ブッダのことば ー スッタニパータ(2)
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について
の
四 幸福について を終わります。