539_仏言葉ー072 ー 涅槃は完成形
第 5 章 やりたいことが見つからない
72.向上のためにすてるもの
わが筏(いかだ)は、
すでに組まれて、
よく作られていたが、
激流を克服して、
すでに渡り終わり、
彼岸に到達している。
もはや筏の必要はない。
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。
(スッタニパータ) (二一)
佐々木さんの書いてあるのを読むと、筏は一言で言ってお釈迦さんの教えであり、彼岸に渡る、すなわち、悟りを開いたらもうこれは捨てても良い、ということらしい。
自分が良いと思ったことにいつまでもしがみついているのは、教条主義であり、苦しみの元になるとしてある。
これは、あまり意味合いが、よくわかりません。
悟りを開けば、もう自分の本質が神様(仏様)そのものであることを感得して、肉体をまといながらも、神様(仏様)そのままの想いと行いが、自然にできるようになる、神様(仏様)の方から流れてくる想いや言葉などをそのままあらわせるから、もう修行は卒業して、その修行方法や内容は用済みだ、という意味ならわかる気がするんですけどね。
修行方法や内容は、あくまでもこうした境地に至るまでの、手段というか通過点であり、一旦、こうした境地になってしまえば、もう悟る前のように迷うことはなくなる、不可逆だ、という意味合いなんですかね。
とりあえず。
悟りを開く、というのは、こうした絶対不可逆の境地に至るという意味合いだ、と理解したいと思います。