おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝

第 6 章 心が晴れるためには

91.正しい教えはわけへだてなく

また全世界に対して
無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。
上に、下に、また横に、
障害なく(*1)怨みなく
敵意なき(慈しみを行うべし)。

(スッタニパータ)
(第一 蛇の章 八、慈しみ より)

だいぶ前に、
中村さんの原始仏典のところで、
お釈迦さんが自力で悟った後、
その内容を布教するつもりがないところに、
偉い神様である梵天様の説得にほだされて、
布教におもむいた話がありました。(*2)

このように、
元々は、
お釈迦さんは自らが悟った内容を
教えとして布教するつもりはなかった(とされている)。
自分の悟った内容は、
あまりにも深遠で、
一般の人々には理解できない、
と思っていたことなどが、
理由としてあげられることがあるが、
本当のところはどうなのだろうか。

佐々木さんは、
お釈迦さんが、
この梵天という偉い神様の懇願(中村さんは懇請としていた)を
受け入れた時点で、
仏教が、
「自分のためだけの宗教」
から
「人々のための宗教」
へと変貌した、
自利から利他という
慈悲を基本とする宗教に変貌した、
としているが、
これは、いくぶん、
こじつけには見えないだろうか。

前回( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 )も書いたしたように、
もしも、仏教が、お釈迦さんが、
元から創造主としての絶対神
認めていたとするならば、
こうした逸話(?)は、
なくてもいいことに
なってしまわないだろうか。

極論かもしれないけれど。

はじめに結論を言うと、
私が感じたのは、
お釈迦さんは、
何らかの意図を持って(いたと仮定すると)、
霊魂を無記としたり、
非我や無我や縁起を使っていたのは、
創造主としての絶対神を明らかにしないまま、
かなりの外堀からの説明をせざるを得なかったために、
あのような難解きわまる話に
なっていたのではないか、
ということです。

非我あるいは無我にしてもそうです。

この肉体はどこから持ってきたの?
両親?
ならばその両親はどこから?
と、
どんどん、たどって行ったらどうなますか?
一体誰がどんな形で人間の元をつくり出したんですか?

肉体があれば生きている?
ならば寿命の尽きた人はなぜ動かなくなるんですか?
肉体に働きかける何らかの力が、
なくなってしまった、
と考えるのが自然ではありませんか?

つまり。

この肉体も、
肉体に働きかける力も何もかも、
あらかじめどこからか与えられている、
みんな対価を支払わず、
無償で与えられている、
ということです。

何らかの絶対的な力のある存在によって。
そう考えざるを得ませんね。

だから、無我なんです。
元からの自分のものは何もない。

自分の力で生まれてきた訳でもなければ、
自分で成長して行く訳でもない。
自分で自らの(肉体人間の)寿命を限る訳ではない(自殺を除く)。

これらも、
何らかの不思議な力の
働きかけによっている。

つまり、
無我ではあるけれど、
与えた何者かはある、
ということです。

それを、
その絶対なる存在を「ない」としなければならないために、
相当に苦しい回り道を強いられているのではありませんか?

この地球さんをはじめとする、
私達肉体人間を取り巻く環境もそうです。
同じように考えることができます。

創造主としての絶対神を、
はじめから認めていれば、
こんなに難しい回り道をしないのではありませんか。

ただ、
この神様というのは、
特定の形にこだわったり、
えこひいきをしたり、
そうした神様ではありませんね。

ありとあらゆるものに、
あまねく命をはじめとした資本を与え、
あとはそれぞれの立場とやり方で、
その資本を生かしながら生きていく。

元は与えましたよ、
あとはあなたがたで、
私の子供としてふさわしいように、
やって行きなさい、
とする神様ですね。

このような神様に感謝を捧げ、
そのあらわしたものすべてをたたえる。

これはきわめて自然な、
ごく当たり前の帰結なのではありませんか。

そうして同じ肉体人間が、
神様の命を本質とする点で、
同胞であるとわかれば、
いかに困難を伴うと思っても、
愛を施すべきだ、
困っているならば、
救いに立つべきだ、
と思うのではありませんか。

お釈迦さんが、
何もわざわざ梵天様に
ほだされることはなくても、
梵天様が、
こわざわざ出向いて
お釈迦さんをご説得なさらなくても・・・。

ありとあらゆるものをあらわした
神様をたたえ、
そして、
その世界の中心的な役割を担う、
同胞である肉体人間が迷っているならば、
世の中が乱れているならば、
救いに立とうとするのは、
当然の成り行きではありませんか。

つまり。

自利から利他ではなくて、
元から利他なのではありませんか。

もう悟りを開いてしまえば、
神様の子供として、
あるべきことを、
自然に行うように、
なるのではありませんか。

お釈迦さんが、梵天様とのやりとりで、
世の中をよく見渡した上で言ったとされる、
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、
私(わたくし)は微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」

という言葉は、どうもピンときません。

他のおかしな信仰をしている人々がいれば、その信仰を自発的にしろ、何にしろ、やめさせるのは本人にかなりの苦痛を強いる場合があるから?

だったら、はじめは辛くとも、おかしな信仰から離脱させることこそが、最終的には本人のためになるんじゃないの?

まあ、それまでの本人の因縁因果を見越して、今生での救いはひかえた方がいい場合もあるのかもしれませんが・・・。

輪廻転生の卒業のためにも、善は急げなんじゃないですかねえ・・・。

それと。

訳の問題かもしれないけれど、耳ある者「ども」とか、梵天様に対して対等以下に呼びかけているととれかねない「梵天よ」というセリフといい、なんかしっくりこないんですよねえ。

私の偏見かもしれませんが。

自然に救いに立った、とする方がはるかに素直でわかりやすいと感じるんですけど・・・。

といった感じです。

これは、あくまでも、
机上の空論にしか過ぎませんが、
もしも、お釈迦さんが、仏教が、
創造主、造物主としての絶対神
(暗黙の)前提としているならば、
こうしたことが考えられるのですよ。

慈しみのお経(一四三 ー 一五二)を
ざっと見た限りでも、
本来なら肉体人間が自らの心を修め(浄め)て悟りを得ることが何よりの大事なことなはずなのに、
一切のものは幸せであれ、
のように出てくるのは、
いくぶん、
唐突な印象を抱いてしまうのですよ。

もちろん、
悟りを得ることができれば、
肉体という、
欲望に引きずられがちな
大変重い足かせを持ちながらも、
神様(仏様)そのままのみ心をあらわせる
素晴らしい人格をそなえた
肉体人間になれるのだから、
対人、そして、自然をはじめとする
あらゆるものに対して、
慈しみの感情は
ごく自然に抱くでしょう。

そうした素晴らしい肉体人間に
なることができれば、
神様讃歌を唱えるのには、
違和感がないことは確かです。

しかし。

あそこまで、高らかに
謳い(漢字はこれでいいのかな?)上げる
というのは、
元から創造主としての絶対神に対して、
こうした気持ちがあったから、
とは取れないでしょうか。

それとも。

自己をきわめて悟りを得ることに
注力し過ぎた(?)
仏教のあり方に対して、
言い訳として(?)、
反省として(?)、
多少の揺り戻しが必要だ、
と考えたのでしょうか。

いや・・・。

やっぱり、言い訳や反省では、
一つの系統だった宗教の教えとしては、あまりよろしくないような気がします。

悟りを開いた者として、
ごく自然に唱えると言うよりは、
自らもそのお命で生かされ、
そして、生きていくための、
ありとあらゆる環境を
ご用意して下さっている、
与えて下さっている、
しかも、
こんな素晴らしい
大自然をはじめとしたものを、
という感謝の気持ちの発露
ととらえた方が、
違和感がないように思うのですよ。

あくまでも、個人的な感想ですけれど。

こうした、
神様をたたえずにはいられない、
そうした気持ちの発露ととらえた方が、自然な感じがするんです。

なので。

慈しみのお経で、
神様讃歌を謳うのも、
唐突ではなくて、
きわめて自然な成り行きであり、
むしろ、
当然のことだったのだ、
むしろ、そうしなければならない、
こうした内容は、
経文には存在しなければ、
そもそも、おかしいはずだったのだ、
と勝手に解釈しています(ただし、量はすごく少ない。讃歌はあまりゴテゴテとはするべきではない、ということか)。

このように考えてくると、
今回のこの中村さん訳の経文は、
創造主としての絶対神を、
おおっぴらにはできない、
暗黙の前提としかできないから、
絶対神の存在を
公に明言することはできないが、
本当にありがたいのだから、
感謝してもしきれるものではないけれど、
とにかく感謝をしなさい、
と読み取れます

「無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」という中の、
「無量」という言葉には、
それがあらわれている、
と思います。(*3)

しかも。

神様とそのあらわされたもの
(神様が形を変えたと考えればこれも神様と看做(みな)せる)は、
目に見えるところも、
目に見えないところにも、
果ては宇宙にまで遍満している、

神詰まりに詰まっている。

上記経文の言い回しの、
「上に、下に、また横に、
障害なく(*1)怨みなく
敵意なき(慈しみを行うべし)」
は、
神様が
あらゆるところにある(偏在する)ことを、
神様があまねく遍満していることを、
わかっていたからこその言葉だ、
と考えると、
きわめてスムーズに理解できます。
よく納得できるお話です。

こうした予備知識(?)がないと、
前後左右上下を慈しむ、
そして、
礼拝まですることの意義は、
わからない気がするのですよ。

と、ここまでくると、また一つのことに気がつきます。

それは。

「慈しむ」という言葉です。

試しに、これを字引で引いてみると。

慈しむ~いつくしむ~愛し、大切にする。可愛がる。
(用例)わが子を慈しむ。

慈しみ~恵み。慈愛。
(用例)仏の慈しみ。

これらのことからわかるのは、
慈しむ、慈しみ、というのは、
相対的に見た場合、
上位の者が下位の者に対して抱く感情、
といった意味合いがあることです。

慈しみのお経は、
肉体人間の方から神様と、
その神様のあらわされたもの(=神様と看做せる)に感謝を捧げる、
謳い上げる、
という意味合いがある、
と考えられるのです。

肉体人間は、
神様の分け命を頂いていますから、
本質は神様ですが、
悟れていないのが一般的です。

ということは、
肉体人間は
感謝の対象である神様と、
そのあらわされたもの(肉体人間も含めて)よりも、
下位に位置する、
と思われるのです。

そうなると、
この慈しみのお経という名前よりも、
感謝のお経を意味する表現に変えた方が、
いいような気がしてくるのです。

それに。

たとえ、悟れていたとしても、
目に見えてわかるように、
下位の立場ではなくとも、
悟れていない時と同じように、
感謝がわくのが、
神様の命を頂く者のしての、
素直な姿だと思います。

神様と、
そのあらわされたものの
すべてをたたえる、
感謝を捧げる、
すなわち、
下位の肉体人間から、
上位の神様と
そのあらわされたものの
すべてをたたえて、
感謝奉(たてまつ)る。

これならば、
慈しみのお経というよりも、
感謝のお経という意味を持つ名前の方が、
ふさわしいのではないか、
ということです。

まあ、
ゴタゴタと、
うるさいなと、
お感じになられた方も、
おられるかもしれませんが、
気がついてしまったので、
ここに記しておきます。

もちろん、
私の文章ですから、
多分にいくつもの、
内容の間違いがあるかもしれません。
その点は、あらかじめ
ご承知置き下さりますよう
お願い申し上げます。

~~~~~

(*1)障害なくとは、場所のことを言っている。場所に関しても分け隔てなく、限界を設けないしないことを意味する。

(*2)中村さんは、原始仏典の中で、梵天という神様のことを、世界の主とか、世界創造の神だと前半で書いている。
しかし、後に、仏教では世界を創造した神は認めていないと書いていて、完全に書いてあることが矛盾している。
錯綜している。
中村さんは、もうだいぶ前にご逝去されていますので、どちらがご本意だったのかは、いまだにわからないままです。

(*3)無量~むりょう~はかりしれないほど多いこと。
(用例)感無量。

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①追記: 2021/09/28 00:10
②追記: 2021/10/01 22:53
③追記: 2021/10/01 23:02
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。
たびたび、失礼致しました。
申し訳ございません。