おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

576_とりあえずの前提

ひろさんの「釈迦」という本を読み込んでいくと、ますます、くねくねが深まり、とらえどころかない。

こんなことばかりやっていては、なかなか、般若経にまでたどり着けないが、仕方ない。

あまり、かかわった部分を、いい加減におざなりにしていくわけにはいかないからだ。

元々、ひろさんの本を買ったのは、お釈迦さんの最後の旅の経緯を詳しく知りたくて、露の団姫(つゆのまるこ)著 団姫流 お釈迦さま物語 春秋社 とともに購入したのがきっかけだった。

ひろさんの ポケット般若心経 講談社 もだいぶ前に買ったことがあるのだが、これは解説らしい解説があまりない超入門用のような CD 付の小さな本だったので、全然参考にならない。

そこで、ひろさんの 釈迦 という本を適当に見ることにしたい。

その前に大前提を設けておきたい。

それは。

悟りを得るとは何だ?

なぜ人間はこんなことをする?

なぜこんなことを求める?

宇宙を知りたい?

真理の探求?

純粋に宇宙だ、真理だ、こんな志向をする人は、かなり少ないんじゃないか?

やはり、この世にまつわること、すなわち、この世の不条理や不均衡といった矛盾した有り様のこと。

そして、幸せになりたいと思いながら、不幸や災難に見舞われる世の人間の苦しさや悲しみ。

こういったところから、
人間とは一体何なんだ、
この世とは一体何なんだ、
五感に感じ取れる世の中の仕組みは、
そしておそらく一般的には目には見えないこの世にかかわる世界は、どのようになっているのか。

こうしたことを知りたいのが、とりあえずの起点なのではないか。

この世が良いことだらけ、真善美に悖らない良いものばかり、楽しいことばかり、嬉しいことばかりならば、
人間とは一体何なんだ?
この世とは一体何なんだ?
そもそも何が真理なんだ?
と、わざわざ考えるようになるとは思えないからだ。

やっぱり、無意識に感じ取っている神様の世界やそうしたあるべき姿があり、それと目の前に展開されている世界があまりにも異なることから、なぜ?と様々なことを知りたくなるのが、すべての大元にあるのではないか?

つまり。

無意識に感じ取っている神様の世界と、それと異なる様々なものの差異(ギャップ)を感じとることが、すべての発端になっているのではないか、ということ。

私達は肉体人間として、真善美に悖る想いと行いの業想念にまみれ、どんなに本体としての神性を忘れ果てたかのように見えたとしても、無意識にこの神様の意識である神意識とでも呼ぶべきものがそなわっている。

世の中で、いろんな議論を戦わせてどんなに正当化をしながら理屈をこねても、この神意識が根っこにはあるのだ。

八正道の「正しい」が規定されていないと、私はケチをつけたが、この正しいという概念は、そもそも理屈なんかで表現しきれるものなんかじゃない。

そりゃあ、周辺からいろいろと理屈づけや表現はそれなりに多少はできるだろう。

しかし、根本的なところは、私達が神様の命を本体としているところから、元々、そなわっている感性のようなものに依存するはずなのだ。

だから、私は、ああして箱詰めにして、杓子定規に分類して、ああでもない、こうでもない、とやっているのは、無意味(ナンセンス)だと感じたのだよ。

悪いけど。

そんな理屈いじりをやっているくらいなら、他にやるべきことがあるんじゃないか、とさえ思ったんだよ。

とにかく。

すべての発端は、私達に元々そなわっている神様としての感性と、肉体人間として五感をはじめとして様々に認識する世界の差異から始まっている。

これを前提に、ひろさんの本を適当に見ていくことにする。

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①追記: 2021/10/29 01:07
②追記: 2021/10/29 05:18
③追記: 2021/10/29 05:31
④追記: 2021/10/29 12:05
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。