おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

577_とりあえずの前提2

ひろさんの「釈迦」という本を見ていくと書いたが、その前に前回の続きを書いておきたい(同日中に書いて日をまたがないようにするので、ご了承下さい)。

私達が無意識に、深層意識として自然にそなえている神意識と、五感をはじめとする肉体人間として感じるこの世の様々な不調和や不均衡な出来事とのギャップを知りたいと思う。

つまり、このギャップを埋めたいと思うんだな。

私達は肉体を持って、この目に見える物質世界のこの世を生きていく便宜上、与えられた自己保存の本能を得たために、利己主義に走りがちになる。

しかし、そもそもが、本質が神様だから、元のあり方に戻りたい、肉体人間としてありながらも、神様の本質をあらわしたいと無意識に思っている・求めている。

だからこそ、そのギャップを埋めるために、そのギャップを生じる原因を知りたくなると考えられるんですよ。

これが、
人間とは一体何なんだ?
この世とは一体何なんだ?
そもそも何が真理なんだ?
と、知りたくなる動機になっていると考えられるのです。

悟りを得ることを求めるのは、肉体人間の有り様を見て、そもそも、肉体人間とはこんな乱れた利己主義に走るような我利我利亡者ではない、こんなはずではない、と無意識に感じるからこそ、本当の人間とは何なんだ、元々の無意識に思っている神体との差は何なんだ、と考えるからこそだと思うんですよ。

一般的な言い方で言うならば、人間とは何か(「汝自らを知れ」の私の意訳です )ということになります。

つまり、神体から、肉体人間にまで降ろされて、また、神体に戻りたいと希求する。

そのままでは、神体には戻れないから、肉体を持ちながらも、神様の本質を可能な限りあらわすことで、神体に近づけていく。

そうして、肉体を持ちながらも、神様としての想いや行いをあらわすことができるようにまで、精進することができれば、同時に神様から周辺の環境として与えられたものも、神様のみ心に適う形で、資源破壊のようにいたずらに損なうことなく有効に活用できるようになる。

そうすれば、最終的には、神様の世界をこの世に映し出す、すなわち、地上天国化も、出来上がることになる。

だから、悟りを得ること、ひろさん流に言えば、真理に目覚めること、ができるのは、肉体を持ちながらも神様の本質をあらわす素晴らしいことではあるけれども、これは一里塚。

神様がそのお命を分けられて、たくさんの肉体人間をこの世にあらわしたということは、やはり、神様の世界をこの世に映し出すことを意図しているからこそだと考えられるのですよ。

悟った人や阿羅漢は、少数ではとても足りないということ。

だから、真善美に悖る不調和をもたらす不穏な想いや行いは、いかなる理由があっても、良くないものとしてこの世に永久に存在することを許されずに、輪廻転生を通して消し去られなければならなくなっていると思われるのですよ。

こうしたことも、確実に病争貧苦といったこの世の不幸をもたらしている。

従って、不穏な想いや論争もすべては最終的にこの世に打ち消すためのさらなる悪いものをもたらしてしまうところの、有害なものにしかならない、と思われるのですよ、個人的には。

私が、フェミさんや論戦を好む人を敬遠するのは、こうした理由があるからです。

では、次回からひろさんの本を適当に見ていきたいと思います。

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追記: 2021/10/29 12:10 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。