おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

548_仏言葉ー081 ー 愛欲と執着

第 5 章 やりたいことが見つからない

81.苦しみの原因を知る

苦しみと、
その原因とを見た人は、
どうして愛欲に傾くであろうか。
束縛は、
世の中に対する執著であると知って、
人は、
それを制し導くことを学べ。

(サンユッタ・ニカーヤ)

佐々木さんは、この経文にある束縛を、輪廻と訳している。

すなわち、
「世の中に対する執着こそが輪廻の本源であると知り」
となっている。

執著(しゅうじゃく)は、仏教語で、現代語なら執着のことなので、以下、執着で統一する。

中村さんの本にはこの部分についての、特にこれといった注釈はなかったが、
要は、執着から真善美に悖る想いと行いの業想念が生じて、これが輪廻転生を通して清算する=なかったものとして打ち消されるから、
結局は、
執着を生じると、霊魂魄の業想念といった汚れ落としをするはめになるので、
輪廻転生による業想念の清算である償いをつくりだす要因となる。

佐々木さんは、それで輪廻を持ち出したものと思われる。

それはいいのだが、佐々木さんの書いてあることには、ちょっと疑問がある。

佐々木さんの書かれている内容の大体を書くと以下の通りだ。

この世の本質は苦しみだけだ。楽しみに満ちているのは錯覚だ。
そして、その苦しみの原因は執着といった煩悩である。
それが理解できれば愛欲は執着につながる、すなわち、苦しみにつながるものに他ならないのだから、束縛(佐々木さんは、ここでは輪廻を使わず束縛を使っている)に傾かないだろうとお釈迦さんは言っている。
だから、愛欲は抑制すべきなのだと。

しかし。

この世は楽しみに満ちているなどと思っている人は誰もいない。

そのはずだ。

(悟れていない)肉体人間の欲望には限りがないので、たとえどれほどの権力者であろうと、金持ちであろうと、必ず、それなりの不満を抱く。

欲深い、業想念にまみれた肉体人間は、完璧に満足する境地には至れないからだ。

だから、(悟れている人以外は)世の中が楽しみに満ちていると思う人は誰もおらず、楽しみに満ちていると錯覚する人もいない。(*)

従って、世の中が楽しみに満ちているなどと思っている人は誰もおらず、そのように錯覚することはない。

そして、この世の本質は苦しみ「だけ」だとしている。

しかし。

お釈迦さんがヴェーサーリーを去るにあたって残した述懐はどう解釈するのか?

すなわち、以下の通りだ( 175_原仏10ー6 参照)。

アーナンダよ。
ヴェーサーリーは楽しい。
ウデーナ霊樹の地は楽しい。
ゴータマカ霊樹の地は楽しい。
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。
バフプッタの霊樹の地は楽しい。
サーランダダ霊樹の地は楽しい。
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

(大パリニッバーナ経) (三・二)

お釈迦さんは、自らがこの世を去ることが近づいていることも悟ってか、自然の美しさ、はかなさ、を感じている。

もっと言えば、お釈迦さんは、神様のおつくりになられた自然をたたえている、讃歌を唱えているのではありませんか。

そして、自らも肉体人間として、生かされているこの五感で、そうした美しい自然を感じとり、楽しまれている。

この世は、
肉体人間として生きていく上では、
償わなければならない過去世で溜め込んでしまった業想念の償いのために生じる病争貧苦や、
肉体を持つがゆえの死を避けられないことをはじめとした固有の苦しみはあるけれど、
そればかりではない。

(神様に)生かされていることで、
こうした感慨に浸ることも、
自然を楽しむこともできる。

ましてや、
悟ったような人は、
何一つ自分のものはない(すべて神様(仏様、み仏)のもの)、
すべてがありがたい、
と感じることができるのではないですか。

従って。

これを見る限り、
世の中の本質は苦しみ「だけ」だとするのは、
誤りではないのか。

細々とうるさいと思われるかもしれないが、気がついたので、一応、記(しる)しておきます。

次に。

お釈迦さんは、
愛欲は執着を生じる元になるから、
それが(身体全体の感覚ではない頭で)理解できれば、愛欲に傾かないはずだ、
のようにサラッと言っているが、
これはそう簡単にはいかないのではないか。

理屈では確かにそうなのだとしても、何だか、うら若い(主に女性に使う表現だが、ここでは男性にも使わせてもらう)のに絶対禁欲を強いられるお弟子さん達が可哀想だ。

もしかしたら、お弟子さん達の中には、お釈迦さんから直々の修行を授かれるほどの過去世のそれなりの良い想いと行いや修行に相当する霊性の開発があった反面で、その過去世においてかなり愛欲に耽ったから、今生ではいいだろう、と判断される人がいたのかもしれないが、それにしても、だ。

なぜならば。

(お釈迦さん在世当時の)今生のみで考えても、お釈迦さんは一時的にしろ、妻帯をして息子をもうけている。お城を出ないようにと父親から女性を側につけられた。

おそらく側室だったのだろう。

つまり。

お釈迦さんは、一時的にしろ、世俗的な愛欲も体験した、その味をしめている経験者だ、ということです。

ということは、経験をするまでの愛欲に苛(さいな)まれる苦しい、特に若い時期の苦しみも当然に知っているはずです。

それを考えると、多少はお弟子さん達が、可哀想というか、不憫というか、気の毒には思わなかったのだろうか?

愛欲の恐ろしさを強調したり、暴走を戒めるのも結構だが、それに耐えるつらさをどのようにさせるのか。

悟りを得ることができればすべてスッキリ解決、何の問題もないということなのか。

これは経験者のお釈迦さんには、わからないことだと思う。いくら凄い神通力があっても。

お弟子さんの気持ちを読み取れたとしても、本人の身になれる訳てはないので、やはり、完全な自他一体感を得るのは、難しいのではないか。

まあ、そこで妥協してしまっては、悟れなくなることは、当時としては確かだった(易行道がないから)のだろうが、その点をお釈迦さんが、どのように考えていたのか。

個人的に知りたいな、と思いました。

それにしても、前( 529_仏言葉ー063 ー 神様の世界は厳しい )にも書きましたけど、学者さんは、愛欲などについて書く内容は、きわめて抽象的というか、概念的で、理屈だけに終始するようなきらいがあります。

お上品だから仕方がないのかもしれませんが、もう少し、具体的にわかりやすく、書いて頂きたいと思いました。

なお、今回の経文は、お釈迦さんとお弟子さん達と悪魔のやり取りのほんの一部分の抜粋でしかないので、次回に全体像を記しておくことにします(繰り返し(オウム返し)が多いんだ、これが)。

~~~~~

(*)これは個人的な推測でしかないのだが・・・。

本当に悟れた人、
すなわち、
自らが神様(仏様)の分け命そのものであり、
肉体はその働き場所である器であり、
いまだ地上天国に至らない(はるか彼方に完成?)この乱れた世の中は、
そのほとんどが肉体人間がつくりだした過去世の因縁の、
この世での時を経て、消えてゆく(=清算されてゆく)姿であり、
一般的に良いとされることは、
神様の命がそのままあらわれたことだからありがたい、
一般的に悪いとされることも、
神様がその世界にあるべきではない、
不要なものを浄めて消し去るためにあらわれたことだからありがたい、
すべては、
神様のそのままが、
この世にあらわれるまでの、
途中の過程で、
神様がいろいろなものを、
押し出す(?)あらわれにしか、
過ぎないものであったのだ、
あるのは神様のみ心しかなかったのだ、
だから、
ありとあらゆるもの、
一切のことはありがたい。
だから、
神様ありがとうございます。
の感謝一念になる、
のではないだろうか。

確かに、
この世は、
過去世の因縁の償いとしての修行の側面はあるけれど、
ただの苦しみだけだ、
一切合切は苦だ、
阿鼻叫喚の地獄みたいなものだ、
としたら、
この世の肉体人間の、
真善美に悖らない美しい想いや行いや、
互いを愛したり、
互いを慈しんだり、
人のために尽くしたり、
厳しさをたたえながらも、
美しいこの大自然をどう解釈しますか。

だから、
この世の(肉体人間にとっての)本質は苦しみだけだ、
というのは、
言葉が足りないか、
足りているのならば、
間違っている、
と思います。

ただ・・・。

こんなことを書きながらも、私は忸怩たる思いがある。

心はぐちゃぐちゃだ。

それは、自分の悪い運命をどうしても受け入れられない、いまだに、神様を呪う気持ちがあるからだ。

お釈迦さんは、当時にしてはおそらく長生きしたよなあ。

80 才だからな。

法然さんも、親鸞さんも、長生きだ。

しかも、仏道に邁進した上での、長生きだからな。

お釈迦さんは、亡くなる間際は、多分、肉体人間としての誰しもが迎えるであろう生きざまを、お弟子さんをはじめとして、みんなに示すために、相当苦しまれたみたいだけど、それまでは見映えもするし、丈夫な人だったんじゃないかなあ。

生老病死

過去世の悪い因縁の償い。

やはり、これらの肉体人間としての苦しみを克服できないと、人生はつらい。

こういっちゃあ何だが、ぶたれたり、浮気されたりといった案件は、過去世の原因の逆算推定が容易だ。

過去世で何があったのか、簡単にわかる。

しかし、難しい病気などでこれがわからないのは、たまらないのだ。

もしも、五井先生に話が聞ければ、そうしたことはすべてわかっている守護霊さんに任せて原因をほじくり返すな、と言われるかもしれないが、やっぱり、わからないのはつらいのだ。

大げさに言えば、あたかも無実の罪に苦しむようなものだからだ。

自分が過去世でやったことと言ったって、教えてもらえず、ただ耐えろ、というのは、修行だとしても、気の弱い、小心者にはつらい。

まあ、下を見ればキリがなく、もっと苦しんでも立派に生きている人もたくさんいるのかも知れないが。

せめて、数少なくても、これを目にする人があったら、健康であってくれ。

幸せであってくれ。

そんな気持ちになることがある今日この頃です。

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①追記: 2021/09/24 01:08
②追記: 2021/09/24 01:38
〜訂正内容〜

申し訳ございません。私の操作ミスで、表題も変えて、文章を全面的に入れ替えました。失礼致しました。
再度、本文を訂正しました。