04 シッダールタ太子の問題意識
前々回( 618_ひしみー040 )、この章( 04 シッダールタ太子の問題意識 )全般について以下のことを書くとした。
1.弱肉強食が自然界の法則と一般化されたのは本当に戦後(昭和 30 年頃)なのか
2.弱肉強食と食物連鎖の境界線はどこで引くか
前回( 619_ひしみー041 )は、1.について書いた。
要は、弱肉強食という競争は、資本主義社会ではそれなりに必ずあるものであり、何も殊更に、弱肉強食が自然界の法則と一般化されたのを戦後の昭和 30 年頃、小型辞典に出始めた時期だからといって、特定はできないのではないか、という内容を書いた。
次に、2.についてであるが、ひろさんは動物などの同種の潰し合い、食い合いはないかのように書いている(ように見える)のだが、これも本当にそう言いきれるのだろうか?
ライオンや猿や金魚に見られる子殺しや共食いは、同種の潰し合い、食い合いには含まれないのだろうか?
これを考えるには、動物行動学などの知識もないとわからないので残念ながら私のような素人にはまったくわからないので手に負えない。
ただ、同種の潰し合いがないとは言えないことだけはわかる。これは、弱肉強食の一形態になるのではないか?
確かに、同種内で種を絶滅させるほどの潰し合いにまではならないにしろ、同種の中での潰し合いという弱肉強食、すなわち、淘汰があるのは確かだと言えるのではないか?
つまり、食物連鎖と弱肉強食はまったく異質なものではなく、食物連鎖が全体として機能するためには、同種の中での弱肉強食という淘汰が含まれていると考えられるのである。
従って、厳密に言えば、何回か前に( 616_ひしみー038 )、・「俗流科学」のいかがわしさ の稿で、ひろさんが、弱肉強食という弱者の犠牲の上に強者が栄えることは、自然界ではあり得ないと指摘していたのは、当たらないのではないか、と考えられるのだ。
些末なことをうるさいと感じる方がおられるかもしれないが、気がついたので、とりあえず、書いておきたい。